Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

新制作二日目の狙い

2022-04-14 | 文化一般
「スペードの女王」の二日目のイムプレッションを書き記す。総論はとても緩い指揮の公演だった。それは最初から初日と比べれば明らかで、後半に入って何をしてくるか楽しみになった。そして初日の頂点であったリザをバスで押し倒して殺すシーンの指揮ぶりで何をやってくるか分かった。

よって緩い指揮でテムポも遅くなるところがあり、前半から嵐と手紙のシーン景の間のコントラストも弱くなる。それで得られるものはテムピを落として演奏する正確さと精査である。同時に当夜はカメラが回っていて、細かな演技が出来る余裕も与えていた。ここまでやるからには制作映像になるのだろうか。

勿論指揮者ペトレンコは、この公演でチャイコフスキーの決定版的な演奏を残そうとしているのは間違いない。するとそれならば初日の燃え方では何度も繰り返されて鑑賞されるべき整理された制作とはならない。

ミュンヘンでの「死の街」が武蔵野音大の資料室に入ったと見たのだが、それと同じように今後とも資料にされるべきならばそうした完成度が必要になる。

ペトレンコは、それだけの為に緩い指揮をしたのか?そのような事はしないと思った。確かにミュンヘンにおいても二日目というのは特殊な修正などが為される回で中々名演とはならないのが常である。しかし何かをその後の公演のためにやってくる。

今回は、上のカメラの件と同時に、終盤になって懸案の落ちがどうなるかが待ち焦がれることになった。先ず長い机の上でのヘルマンの友人のトムスキー伯の歌と踊りはより凄味があった。これだけでもそのニヒリズムが明白になって最後が決まってくる。

チャイコフスキーの音楽構造でもあり、劇的な構成をどのように考えるか。指揮のペトレンコにとっては細かな演出を積み上げて行って、その場面間のコントラストのみでなくて、どのように最後の落ちを印象的に描けるか。恐らくそれは更に丁寧に細かに音楽的に正しく表現していくことと、同時に奈落と舞台上での緊張関係や演奏の充実さを千秋楽で頂点に持ってくるかに掛かっていると考えているに違いない。

その為にも取り替えられるテークを撮っておくのであり、少々の破綻を辞さない燃焼の千秋楽の為の準備となるのか。個人的には二日目も行けてとてもお勉強になったと思った。劇場の指揮者は皆こうしたノウハウを積み上げているのだなと思う。そして演出家がそのたびに手を入れているようだ。

なるほど最後の拍手では主人公ヘルマンへのソゴモニアンへの拍手がトムスキーのズリムスキ―よりも弱かったが、それは仕方がないかもしれない。一番拍手を長く愉しんでいたのはリザ役スティキーナであるが、初日よりも演出に留意して歌も抑えていたので余計に冴えなかった。

玄人はどうしてもそこのアスミク・グリゴーリアンの歌声と舞台捌きを思い描くので、これまた致し方がない。世界が違い過ぎる。超一流の歌手とその辺りの売りに出ている歌手では比較にもならない。玄人はそれを知っている。



参照:
「スペードの女王」初日批評 2022-04-13 | 文化一般
ロシアンニヒリズムを想う 2022-04-06 | 文化一般

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「スペードの女王」初日批評 | トップ | ウクライナ救済をうたう »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿