冬季スキーシーズンの終了を期して、アルペンスキー・アールベルク・テクニックの祖ハーネス・シュナイダー氏のことを調べると、面白い事が出てきた。
先ずは、1880年にノルディックスキーを使ってノルウェーのカイザーパスが英国人ウィルアム・セシル・シングビーによって越えられている事。その後ドイツ人パウルッケによって、ベルナーオーバーランドがノルディックスキーで縦断される。一方グリーンランド探検などに続いて、欧米ではスキー技術が軍事的な興味も持たれるようになる。同時にスキー・ツーリズムの幕開けである。1890年代にはミュンヘンなどにスキークラブが出来て、1894年にはオーストリーの最高峰グロースグロックナーに近いゾンブリック(海抜3103メートル)がスキーで登られている。
1903年には、ベルナーオーバーランドのアーデル・ボーデンで初めてのスキーパック旅行がサー・ヘンリー・ランの下に企画されている。アルペンスキーの大きなレースは、1911年にシオンの谷のクランモンタナで、カンダハー伯の主催で開かれている。これが有名なカンダハーの滑降レースとなる。それは1922年の初のスラロームレースへと引き継がれていく。
因みに愛称ボブスを持つロバーツ オブ カンダハー伯(1832-1914)は、イートン出身の軍人で長くアフガニスタン、インド、南アフリカに駐屯しており、ここからアフガニスタンの土地の名の伯号を授かった。有名なザンクト・アントンのカンダハーのコースはここから名付けられた。これで、アフガニスタンとアルペンスキーの奇妙な関係が解明出来た。
そしていよいよ1928年には、ハーネス・シュナイダーによって滑降とスラロームの統合が図られたとある。つまり、滑降技術と回転技術の統合が試みられ複合競技が開催されたと考えてよいだろう。その技術は、シュテムターンとジャンピングターンである。そこでは深い姿勢でのシュテムクリスチャニアが最終的な目標となっていた。
ハーネス・シュナイダーは、ファルガの頂上から真っ直ぐに長い谷を下った西側の小さな村ステューベンに1890年に生まれ、1900年ごろからスキーを初め、1905年には土地のスキー学校の共同経営者になっている。その後、アーノルド・ファンク博士の映画で見事なスキー技術のみならず登山技術を披露して、レニー・リーフェンシュタール等と度々共演している。
1930年には、玉川、成城学園の招きで日本でデモンストレーションを行っている。その年に「白い雪煙」が撮影されているので、帰国後に撮影したのだろうか。何れにせよ、積雪期であり登山技術のデモンストレーションは行われていない。彼が華麗なアイゼン技術を伝える環境は無かったと言える。1938年に家族揃って米国に招かれ、ニュウハンプシャーでスキー学校を開き、1955年の4月に心筋梗塞で世を去っている。時代背景もあろうが、その後のオーストリー・アルペンの大スター、トニー・ザイラー氏やカール・シュランツ氏が其々故郷キッツ・ビューエルでスキー学校を、ザンクト・アントンでホテルを経営しているのと対照的である。
アルペンスキーの技術は、数年前まで大なり小なり彼のテクニックが基本になっていたのだが、カーヴィングスキーが登場してからはそれが不要になってきた。ここ数年の内に、その技術を一切教わらなかったスキーヤーが大半を占めてくると思われる。この間80年の年月が経過した。体が忘れないうちに不完全に習得したその古い技術から新しいカーヴィン技術への移行を体で反復練習しなければならない。畳の上の水練ならず、壁引っ張り内足過重をする今日この頃である。
参照:
汗と涙のチーズ味 [ 料理 ] / 2005-03-27
映画監督アーノルド・ファンク [ 文化一般 ] / 2004-11-23
先ずは、1880年にノルディックスキーを使ってノルウェーのカイザーパスが英国人ウィルアム・セシル・シングビーによって越えられている事。その後ドイツ人パウルッケによって、ベルナーオーバーランドがノルディックスキーで縦断される。一方グリーンランド探検などに続いて、欧米ではスキー技術が軍事的な興味も持たれるようになる。同時にスキー・ツーリズムの幕開けである。1890年代にはミュンヘンなどにスキークラブが出来て、1894年にはオーストリーの最高峰グロースグロックナーに近いゾンブリック(海抜3103メートル)がスキーで登られている。
1903年には、ベルナーオーバーランドのアーデル・ボーデンで初めてのスキーパック旅行がサー・ヘンリー・ランの下に企画されている。アルペンスキーの大きなレースは、1911年にシオンの谷のクランモンタナで、カンダハー伯の主催で開かれている。これが有名なカンダハーの滑降レースとなる。それは1922年の初のスラロームレースへと引き継がれていく。
因みに愛称ボブスを持つロバーツ オブ カンダハー伯(1832-1914)は、イートン出身の軍人で長くアフガニスタン、インド、南アフリカに駐屯しており、ここからアフガニスタンの土地の名の伯号を授かった。有名なザンクト・アントンのカンダハーのコースはここから名付けられた。これで、アフガニスタンとアルペンスキーの奇妙な関係が解明出来た。
そしていよいよ1928年には、ハーネス・シュナイダーによって滑降とスラロームの統合が図られたとある。つまり、滑降技術と回転技術の統合が試みられ複合競技が開催されたと考えてよいだろう。その技術は、シュテムターンとジャンピングターンである。そこでは深い姿勢でのシュテムクリスチャニアが最終的な目標となっていた。
ハーネス・シュナイダーは、ファルガの頂上から真っ直ぐに長い谷を下った西側の小さな村ステューベンに1890年に生まれ、1900年ごろからスキーを初め、1905年には土地のスキー学校の共同経営者になっている。その後、アーノルド・ファンク博士の映画で見事なスキー技術のみならず登山技術を披露して、レニー・リーフェンシュタール等と度々共演している。
1930年には、玉川、成城学園の招きで日本でデモンストレーションを行っている。その年に「白い雪煙」が撮影されているので、帰国後に撮影したのだろうか。何れにせよ、積雪期であり登山技術のデモンストレーションは行われていない。彼が華麗なアイゼン技術を伝える環境は無かったと言える。1938年に家族揃って米国に招かれ、ニュウハンプシャーでスキー学校を開き、1955年の4月に心筋梗塞で世を去っている。時代背景もあろうが、その後のオーストリー・アルペンの大スター、トニー・ザイラー氏やカール・シュランツ氏が其々故郷キッツ・ビューエルでスキー学校を、ザンクト・アントンでホテルを経営しているのと対照的である。
アルペンスキーの技術は、数年前まで大なり小なり彼のテクニックが基本になっていたのだが、カーヴィングスキーが登場してからはそれが不要になってきた。ここ数年の内に、その技術を一切教わらなかったスキーヤーが大半を占めてくると思われる。この間80年の年月が経過した。体が忘れないうちに不完全に習得したその古い技術から新しいカーヴィン技術への移行を体で反復練習しなければならない。畳の上の水練ならず、壁引っ張り内足過重をする今日この頃である。
参照:
汗と涙のチーズ味 [ 料理 ] / 2005-03-27
映画監督アーノルド・ファンク [ 文化一般 ] / 2004-11-23
BLOGの方も好事家には見逃せませんね。大変参考になります。早速友人のエンジニア・スキーヤーにもURLを教えておきます。
また宜しく。
因みに正式タイトル:
Field Marshal Lord Roberts of Kandahar, V.C., K.G., K.P., G.C.B., O.M., G.C.S.I., G.C.I.E.
なるほど。
私も、「バインディングのカンダハーは、アフガニスタンのカンダハルである」ということまでは調べたのですが、カンダハー伯という人物がいたとは。。。。
では、カンダハーコースと、バインディングのカンダハーの関係は、私が頑張って調べてみます。
あ、下記のblogにもお越しください。
http://charley.tea-nifty.com/2/
山スキーで思い出しました。そうですね。テレマークを使っていましたね。現在の最も一般的なオーストリー製占め具、フリッチュでも荷物を担げばテレマークで滑ると安定するでしょう。山スキーをやっていないので忘れておりました。
道具と技術が変遷している分、多様化して来るのも当然ですね。一度報告しましたように、木だけでなく竹素材のカービングスキーも出ており、締め具も一体性型まであります。革靴もオーストリーでは専門靴屋がある反面、最新のショートカーヴィングの板は何処でもどんな雪でも豪快に滑れる事を可能にしてくれました。多様化している分、自分で調べて試して理想を追求していかなければならないようです。スノーボードをも含めた選択の自由は、雪国出身者でない限り関心を絞る事を難しくしているようです。我々にはそのテキトウ流が難しいのです。
アフターの酒ほど美味いものは無し。
参照:アルペンスキー競技の乖離 [ アウトドーア・環境 ]
londonchapさん、アルペンスキーに関しては英国はパイオニアでありながら、不利な立場にありますね。確かに何処のスキー場も最寄のインターナショナル飛行場から車で一時間ほどはかかります。子供の頃からの実力は羨ましいです。そこは遊びの達人londonchapさんならば、サン・モリッツで雪上ゴルフ(赤塗りのボールで)など如何ですか?また、氷河スキーでなくとも、春に両方を楽しめる時期もありそうです。二週間滞在ならば価値が有るのでは。
195CMですか。私も以前使っていた板から、ショートカービングスキーに変えて、20CM以上短くなりました。フリーライダーなので、斜面や雪面を選ばないので楽しいです。ショートでも幅が広いので安定していますし、深雪も楽です。一度、お試し下さい。
山国雪国育ちでして、小学校からスキーの授業がありました。中学生ぐらいまでは、単板に踵が浮く皮の締具で、テレマークで教わったと思います。高校のころは合板にカンダハの締め具が普及し、オーストリアスキー術全盛、シュテムの授業だったと記憶しています。新雪でのジャンプターンとか。1960年ごろですね。でも、私は山岳部でして山スキーは、キスリング担いでテレマークでした。古い男でございます。
それから10年たったころ、板は木からグラスファイバーになり、締具も用語を忘れましたがワンステップで、ターンは両足加重両足抜重がふつうで、覚えるのに大変でした。それからピポットだのなんだのと……。やれやれ。
いまでは、あまりやらないのですが、テキトウ流です。
なるほど。股関節の使い方は想像するしかありませんが、確かにスラロームなどもショートになって以前の名人は全て姿を消しましたね。確かに過渡期でした。今の少年チームの指導者などを見ると全く滑りが変わって来ているので10年後の目から現在の滑りを見ると、私たちがテレマークの滑りを見るような印象になるのでしょうか?
こちらこそ宜しく、お願い致します。
井上さん、コメント有難うございます。カーヴィング登場の前ですがフランスでは「ボーゲンを教えない」と言う事で観察しました。確かにフランスの場合はパラレル系よりもヴェーデルン系のテールをずらした滑りが一般的でした。ピステの広さと斜面の素直さが違うからでしょう。これからはカーヴィングを一時間目から習うのでしょうけれど。
仰るように、道具は変わって滑り方は変わると思います。勿論どちらも完璧に滑れれば文句は無いのですが。もう一度、精進したいと思います。テレマークか、カーヴィングか?
NOBUさん、有難うございます。こうしてスキーを楽しんでおられる方が居る事を知って嬉しいです。競技でも基礎スキーでもとことん楽しむ方がどれ程いるかは大事な要素と思います。そういう熱気をBLOGでもどんどん伝えてください。何か面白そうじゃないと、誰も振り向かない。スキー・ツーリズムも終わりです。爪楊枝板も重宝してますか!
まさるさん、コメント有難うございます。再訪ですか、それは嬉しい。料理の写真と日常がかえって打ち込み方を強調していて好かったです。少々の怪我よりも体を痛める事のないように頑張って下さいね。
実は何度かこのHPを訪れていました。私はスキーにはまって2シーズン目なので、少し難しい部分が多いのですが『勉強しないとな』とやる気になります。
スキーテクニックも、カービングスキーのお陰で、幅が広がりましたね。爪楊枝板のテクニックは、カービングに不向きな急斜面や難斜面では、今でもしっかり役に立ってます。(*^_^*)
「スキーは道具のスポーツ」なだけに、マテリアルが変わったことで、それまでは駄目だとされてきたことが OK になってしまうのは、面白くもあり、厄介でもあり、という感じがしています。
私は目下、自分が習った「いきなりパラレル」の方法などについて書き連ねていますが、そのうち、何かマテリアルの大革新があって、自分が覚えてきたことがパーになるのかもしれません。そうなったら、それはそれで楽しめればと思っています。
記事中のシュナイダーのテクニックが良く分からないのですが、カービングスキー以前のテクニックと以後で大きく変わったのは、股関節を使う方向だと考えています。また、現在のトップレーシングの第二世代カービングでは、旧タイプの股関節の使い方も多く使っているようにも感じています。いずれにせよ、子供たちのテクニックが飛躍的に向上したのは、カービングスキーの登場によるところが大きいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。