2004 08/11 編集
ヨゼフ・ボイスの兎を上手く使ったのが映画監督シュリンゲンジフの「ヴァーグナー・パルシファル」の新演出だ。ボイスの「金の兎と太陽」はちょくちょくと方々で目にする。東洋やインカにおける「月の兎」を髣髴させる。更に有名なのは、60年代アナーキストグループ「フルクサス」当時に、死んだ兎を抱えての「この兎に絵を説明する」というパフォ-マンスのようだ。4月にここの「野兎/Der Feldhase」の項に記したが、兎には中世から伝統的にイースターやクリスマスでの「繁殖」、「臆病」などのイメージがある。しかし検めてデューラーの1502年の署名の入った「兎」を見ると、一般的なイメージといわれているものとも若干違う。詳細に描かれた兎は、そこでは外界を捉える内なる世界を有している。
ボイスがデューラーをどのように捉えたかは知らないが、今回の演出でこの兎は頻繁に登場する。毛皮の衣装になったり、ある時は舞台上の意匠で、更に写真であったり動画であったりする。どれも即物的に示される、大写しの毛肌に黒点をハエのように走らせたり、大写しで波打つ毛並みをズームアウトしていくなどして、「この兎の存在」を利用する。この兎によって観念連想と統一を得るのみならず、更に多くの素材を投入する。ここで前々日に偶々ふれた相撲廻し様な腰蓑姿のヴューデューの原母性イメージの半裸体も、ミクロスコープで覗いた細胞状のミニマルパターンの動き同様、生物系の素材として分類できる。それらは舞台と映像の双方で登場する。人間の映像も生物系とは別途に加わる。荒地の映像と北欧の漁村風景のような自然描写の素材も使用される。音楽的な素材に比べ多すぎる視覚素材は、演出家本人が今後音楽に依存しない映像作品化も発言しているので合点がいく。
映画においても最近は、本歌取りやパロディー描写が更に増えたと言う。なるほど半世紀前に比較すると元となる本歌も増えている。其の元の映像自体がパロディーである可能性も高い。兎ならず鼠算式に増える。生物界同様、文化も増殖して淘汰されるというのか。ステレオタイプの表現の増大は、更に小分けされたパターンを生み、ミニマル化して、最後にはヴードュー教の恰も全身が麻痺し幻覚を見るような呪術のように働く。情報量の過多と麻痺である。反対にそれぞれの連関を出来る限り断ち切り素材を厳選することで、非連続を生み出すことが出来る。今回の宇宙ロケット打ち上げ射精ギャグが、昨年からの「オランダ人」演出での「エルム街のフレディーの指」とは一味違う効果を挙げれたのかは甚だ疑問である。それでも情報構築による大きな広がりと即物的な視線によって、映像による劇場世界の構築には十分成功した。デューラーの兎の形而上の内側から形而下の外側への、非連続の空間を上へ下へのトランスポーションの欠如が、何よりも惜しまれた。
参照:伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
ヨゼフ・ボイスの兎を上手く使ったのが映画監督シュリンゲンジフの「ヴァーグナー・パルシファル」の新演出だ。ボイスの「金の兎と太陽」はちょくちょくと方々で目にする。東洋やインカにおける「月の兎」を髣髴させる。更に有名なのは、60年代アナーキストグループ「フルクサス」当時に、死んだ兎を抱えての「この兎に絵を説明する」というパフォ-マンスのようだ。4月にここの「野兎/Der Feldhase」の項に記したが、兎には中世から伝統的にイースターやクリスマスでの「繁殖」、「臆病」などのイメージがある。しかし検めてデューラーの1502年の署名の入った「兎」を見ると、一般的なイメージといわれているものとも若干違う。詳細に描かれた兎は、そこでは外界を捉える内なる世界を有している。
ボイスがデューラーをどのように捉えたかは知らないが、今回の演出でこの兎は頻繁に登場する。毛皮の衣装になったり、ある時は舞台上の意匠で、更に写真であったり動画であったりする。どれも即物的に示される、大写しの毛肌に黒点をハエのように走らせたり、大写しで波打つ毛並みをズームアウトしていくなどして、「この兎の存在」を利用する。この兎によって観念連想と統一を得るのみならず、更に多くの素材を投入する。ここで前々日に偶々ふれた相撲廻し様な腰蓑姿のヴューデューの原母性イメージの半裸体も、ミクロスコープで覗いた細胞状のミニマルパターンの動き同様、生物系の素材として分類できる。それらは舞台と映像の双方で登場する。人間の映像も生物系とは別途に加わる。荒地の映像と北欧の漁村風景のような自然描写の素材も使用される。音楽的な素材に比べ多すぎる視覚素材は、演出家本人が今後音楽に依存しない映像作品化も発言しているので合点がいく。
映画においても最近は、本歌取りやパロディー描写が更に増えたと言う。なるほど半世紀前に比較すると元となる本歌も増えている。其の元の映像自体がパロディーである可能性も高い。兎ならず鼠算式に増える。生物界同様、文化も増殖して淘汰されるというのか。ステレオタイプの表現の増大は、更に小分けされたパターンを生み、ミニマル化して、最後にはヴードュー教の恰も全身が麻痺し幻覚を見るような呪術のように働く。情報量の過多と麻痺である。反対にそれぞれの連関を出来る限り断ち切り素材を厳選することで、非連続を生み出すことが出来る。今回の宇宙ロケット打ち上げ射精ギャグが、昨年からの「オランダ人」演出での「エルム街のフレディーの指」とは一味違う効果を挙げれたのかは甚だ疑問である。それでも情報構築による大きな広がりと即物的な視線によって、映像による劇場世界の構築には十分成功した。デューラーの兎の形而上の内側から形而下の外側への、非連続の空間を上へ下へのトランスポーションの欠如が、何よりも惜しまれた。
参照:伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
今後とも宜しく。
映像も流していたのかもしれませんが、残念ながら観られませんでした。そのパフォーマンスは是非見てみたいですね。
内容もいろいろ知らんことだらけなのでまたのぞきに来ます。
はじめまして、Kylinさん。
貴重なコメントを其々の世代(内容から推測できる)から頂きまして、大変勉強になりました。実は、私も「フルクサス」については聞いていたもののボイスに関しては今でも十分に理解していません。監督のシュリンゲンシッフ氏も若い世代です。この時点で解る事は、同時代の第一世代から当時を全く知らない第三世代に移って初めて上のような捉え方が出来てきたのかなというのが、感想です。本記事のテキストは、報告として直後に纏めたもので、未消化のものはそのままになっています。そして今の時点で見直すと、ここでのテーマの全てをこの若い監督が提議したことが分かります。
読み返すと、マナー違反のようなコメントで申し訳ないです。
大人な対応ありがとうございました。
隙間産業。
自分なりに考えると(という言い方は自分の言葉なのに変ですが)、芸術というものが人間に向けて発信され、その中で価値を見いだされていく(と思うのですが、対人以外の作品があれば是非教えていただきたいです)のに対して、それ以外のものに向けて、例えば、この星に向けて、地球と共鳴するような作品はできないだろうか、ということです。ただそれは、あるがままに生きる、ということであるような気もするのですが。
所詮それは人にとって、、、
これは『人』は「他人」ではなく「人間」全体です。
人間にとっての新しい発見は、人間にしか還元され得ないのではないか、と思ったのです。ただ、それによって、人間と他との関わり方が変わり、そして・・・ということもあるでしょうが… 余談ですが、某24h番組のコピー『愛は地球を救う』が嫌いです。食物連鎖は循環なのに、その頂点が人間であるかのような印象を受けるので。人がいなくても地球は回っているのに。。。 そういう処からの考えであると思われます。
パンを買う必要性は十分に理解しています。
音楽においての話で申し訳ないですが、価格が横並びの音楽に置いては、やはり芸術性の高い作品ほど売れず、商業的なもの(最近ではより単純な安物のエンターテイメント性の高いもの)の方がよく売れます。しかも一般的には、[売れるもの=いいもの=芸術作品としての価値、完成度が高い]という認識が結構多いようです。
これは業界全体をみたときの大きな流れです。例外も多々ありますが全体でみれば…。「最近はリスナーの耳が肥えてきた」という発言をたまに目にしますが、それでもやはり、そんなには変わらないのが現状です。
簡単な例を出すと、「くるり」より「アジカン」の方が売れる。
ということです。求めるものが違う、と言ってしまえばそれまでですが。。
ボイスがどういう意図でキリストを掘ったのかは分かりませんが、多くの人が価値を認めやすいものを、そこに深い意味を込めて作り出せたなら、それはそれでいいと思います。表現の一形態として。ただ自分の場合は、他人の好みを利用する、ということになると思いますが。
長々と、すみません。勘違いなどありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
「フルクサス」つながり
なのですね。
「フルクサス」については、殆ど無知なもので
これから勉強です。
また、眺めに来ますので、よろしく。
>>DEC/05/'04/(SUN); Written by "Kylin"
今やサンプリングが表現の主流になっているので、た
私は61才歳でして。つまり、60年代70年代、フルクサスの衝撃が「アバンギャルド」だの「ハプニング」だの「パフォーマンス」だのと、とくに若者たちのココロをとらえていた時代の「青年」でして、ま、すぐ行ったわけです。
懐かしさもありましたが、けっきょく近年「パフォーマンス」や「コラボレーション」なんていう言葉がフツウに使われるのは、「フルクサス」と関係があるのではないかと考え直す、よい機会になりました。
「閉塞」がいわれて長い年月がすぎましたが、既存の言葉や表現方法では表現できないことを、どう表現したらよいか、という壁に囲まれているような気がします。「フルクサス」が、なにか手がかりになるか? とにかく私はフルクサス展を観て、とてもよい気分になりました。
それはともかく、こちらのヘッドにある、マルティン・ルターの言葉、気に入りました。ただ、「ワイン、女、そして歌」を愛していても馬鹿者はいますね。この私のように。
では~
フルクサスについてはよく知りませんでしたが(この記事のリンクでだいたいの概要を知りました)、個人的には隙間産業狙ってます。現象や物体の存在を正しく(といってもかなり主観的で常に更新され続けますが)理解して、それを解体、破壊、もしくは他の方法を使って再現、表現できればいいなー、と考えてるだけですが。
「古くて新しくて古い」というのはどの分野でもよく繰り返されてることかと。リバイバルブームとか言ってよくテレビで… ほとんどファッションですがw
本当に新しいものが現れたとして、所詮それは人にとって、、、ですから。人類にとっては意味あることでも、それってなんかなぁ、、という感じです。
なんか、分かったツモリの人、みたいな文ですみません。
とりあえず反抗してみる人なもんで。
難しい内容の文章ですね!
何をされている人なのか読み取れなかった。
研究者か学者ですか?
今ちょうどミリャエル・エンデ全集(岩波書店)の16巻「芸術と政治をめぐる対話」を読み終わったところです。エンデとは全然対話になっていないのだけれど、そのままずーと対話が続く、日本では絶対にありえないなあと関心して読みました。こういう議論が日本人もできるようにならないと成熟しないなあと。岩波書店の発行というところも、少し違和感がありました。訳に先入見が入っているような気がします。