Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

モーツァルトを祀り上げる

2006-10-03 | 
積み重ねてある古い新聞の文化欄を眺めていると、覚えのないシュヴェンツィンゲン音楽祭の記事が目に付いた。日付を見ると今年の開幕当時の4月である。

一般的にこの音楽祭は、戦後1952年にSDRの後押しで始まったとされるが、その前史が載っている。書き手は、昨年バイロイト関連で取り上げた音楽祭研究者のシュトゥンツ氏である。

今回初めて知るベルリンの古公文書に第三帝国の芸術政策に対する思惑が記されている。オーストリアのザルツブルク音楽祭に対抗するべく、作曲家と所縁の深いカールテオドール候の夏の宮殿をメッカとしてモーツァルトを祀り上げようとする計画が、宣伝省を中心に進んでいたことが明らかにされている。

宣伝省大臣ゲッペレスは既にハイデルベルクで音楽祭を催していたことから、宮殿にあるロココ劇場の修復に際して、バイロイト以上の音楽祭にしようと画策した。

アルテュール・トスカニーニやブルーノ・ヴァルターという錚々たる巨匠が登場していたインターナショナルなザルツブルク音楽祭を、「ユダヤの魔女の狂宴」、「ヴィーン風俗物主義」、「退廃したカフェー劇場」と呼んだ宣伝省にとっては、安物の第三帝国の芸術を示すわけにはいかなかった。

だから問題は中身で、地理歴史的に関係の強い伝統あるマンハイム国民劇場は宣伝省の主導権を嫌い、時のザルツブルクに芸術的に劣らないものとしてベルリンのプロイセン宮廷劇場に白羽の矢が立った。しかし、プロイセン大臣はゲッペレスにとってライバルのゲーリング元帥であって、具体的協議は難航したらしい。1937年10月に修復計画が決り、1938年1月に宣伝相は野心を持って打診している。結局、ベルリンの劇場の関与が承知される。この件をヒットラー自身が承知していたかどうかは定かでないようだ。

それで、既にバーデン・バーデン郊外のブューラーへ-エでゲッペルスらと会議を持っていたプロイセンの劇場支配人ティーティエンは、世界的評価の高いベルリンの「魔笛」を移転することで異論がなく、出演者の選定へと入っていった。しかし誰が実権を取るかどうかなどなかなか明確にされなかったようである。

指揮者クレメンス・クラウスには既に辞退されていたので、リヒャルト・シュトラウスも候補に挙がる。ユダヤ人妻を持つヨゼフ・ギーレンなども演出家として適当かなどが協議される。最も問題となったのは劇場の大きさが違うための修正で、新演出同様に費用が嵩むことであった。

そうこうしている内に1938年3月のオーストリア併合となり、ザルツブルクはナチの手に落ちる。「マイスタージンガー」で指揮者カール・ベームがデビューを果たし、トスカニーニに代わってクナッパーツブッシュが「フィデリオ」を受け持つ。

余談であるが、指揮者クナッパーツブッシュは、この年残された任務を一手に引き受けたようで、ヴィーナーフィルハーモニカーを率いてルートヴィヒスハーフェンのIG-Farbenカイザースラウテルンを訪れ、第三帝国の統合を印象付けている。

その一方シュヴェツィンゲンでは、カールスルーエ劇場の客演がゲッペルス臨席で1938年1939年と行われる。予定されていたグスタフ・グリュンドゲンスの「魔笛」は、1938年12月にカラヤン指揮でベルリンで上演される。

芸術的質を護ると言う観点から、シュヴェツィンゲンが目指していたようにザルツブルクでもバイロイト同様、劇場外での不細工なハーケンクロイツの旗や総統の胸像を除くとすくなくとも劇場内でのイデオロギーの発露は制約されていたとしている。

こうした事象をみれば、一般的に言われるように、ファシズムのイデオロギーによる芸術への被害は同時期のプロレタリアート独裁に比べ軽度としてよいのかもしれない。しかし革命政権とは異なり、ナチの戦略として、変わらぬ文化圏を誇示することも重要であったことを忘れてはならない。



参照:
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17
知っていたに違いない [ 歴史・時事 ] / 2006-08-24
世俗の権力構造と自治 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-09
眠りに就くとき [ 女 ] / 2006-08-07
没落-第三帝国の黄昏 [ 文化一般 ] / 2005-10-21
更に振り返って見ると[ 歴史・時事 ] / 2005-10-09

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2 コメント

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ことなきを得た? (ohta)
2006-10-03 16:07:55
 飛行機に乗りこむときに取った FAZ のうち Feuillton の冊子だけを必ず持ち帰って,自宅でも読んでいますが,貯まる方が多くて捌けて行きません.

 ティーティエンについては少し前の日経朝刊最終面に,彼の奥さんが語っている記事が出て,それでいくらか記憶を更新したところです.

 シュヴェツィンゲン音楽祭には行ったことがありませんが,シュ ヴェツィンゲンの庭園散策後,宮殿付属建物内での宴会はハイデルベルクで夏期に開催される学会の定番です.陽が落ちる前後がなかなかです.

 モーツアルトについては,Kurpfaelzisches Kammerorchester Mannheim が Schwetzingen のマリア教会で演奏している Brilliant Classics: Mozart Edition Vol. 22, Serenades & Divertimenti という 10 枚組の CD をたまに聴きます.この中にしか納められていない曲があるからです.素直でなんの変哲も無い演奏ですが,幼少時の曲については却ってその方が合っていると時に思います.当時,マンハイム国民劇場が誘いに乗らず,それでことなきを得たというのには興味をそそられます.
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文化芸術的に高度過ぎた? (pfaelzerwein)
2006-10-03 19:36:35
ohtaさん、ご無沙汰しております。最近は執筆人が著しく若返りしましたが、それでも文化欄は特に書き方が凝っていて、自国語の平均以上の教育レヴェルで字面を読めたとしても、普通は内容を理解するまではとってもいかないでしょう。分担していても編集者は大したものです。



ゲッペルスは、HDには学生時代の想いか、特別な思い入れがあって、古代劇場などを聖地にしようとしていましたから、こうした試みがことごとく現実化していたなら大きな文化的影響があったことでしょう。



-この記事では、「成功が危ぶまれていたので、ゲーリングに傲慢な前宣伝で笑いものになることのないように宣伝省が釘を刺している。」ことを記しています。-



逆に成功しなかっただろう理由は、政治的に利用するにはあまりに文化芸術的に高度過ぎたのかもしれません。現在の音楽祭が毒も薬ももたずに進行しているのと裏腹です。



マンハイムの劇場関係者として、フリードリッヒ・ブランデンブルクとエリッヒ・シェファーの二人が挙がっています。



http://www.antiquario.de/a_autoren/s/Schaefer_Walter_Erich.html



ティーティエンについては、ヴォルフガンク・ヴァーグナーの回顧録を改めて読んでみましょう。



Kurpfälzisches Kammerorchesterは、我が家の前でも定期的に演奏をしております。録音となると厳しかっただろうなと想像しますが、上手く鳴っていますか?
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