今年の空は、暖かいので例年のそれとは少し違う。「夕焼け」でドイツ文学サイトをサーチした。出てきたのは1788年生まれのヨゼフ・フォン・アイヘンドルフから1932年没のグスタフ・マイリンクまで数人である。これはドイツロマン派初期から超自然主義の奔りまでの間に相当する。
フォン・アイヘンドルフの詩は、手を取り合って野山を歩き回った後の一時を写す。安らかな夜を待ち受ける時、全てが深い谷に死のように静まり返っていく風景。秋と思われる。彼が何回も詠んだ夕焼けの風景は、生地のシュレージン地方やボヘミアだろうか。夕焼けに時は止まり、朝の清澄が漂い続ける時と語る。ハレからハイデルベルク大へ進んでアルニムとブレンターノに出会った時期のような気もする。彼らが疲れた足を引きずる風景は、何となくオーデンヴァルトの小道の風景に重ね合わせる事が出来るからだ。
ベティナ・フォン・アルニムは、「魔法の角笛」を纏めた兄のクレメンス・ブレンターノと有名な夫を持つ。それとは別にゲーテ家との親交やグリム兄弟の業績の振興でも活躍した。彼女においては、浜辺の夕焼けに高揚した思いに遠く離れた山にひばりと男の賛歌を響かせる。
ハインリッヒ・ハイネは、デュッセルドルフ出身でボンに学んだ。だからライン河には特別な思い入れがあったようである。ローレライだけでなくボンはバット・ゴーデスベルクのドラッヘンフェルスの夕景を詠む。いくらかゆったりとしたラインの水面に反射する夕焼けの古城である。この情景を自ら最盛期のロマンティックと呼ぶのが面白い。
E・T・A・ホフマンは、ベートヴェンの交響曲は我々を樹木の茂った林(林苑)へ誘うと表現する。子供たちが踊り、彷徨い、笑いながら木々や薔薇の木の陰で、花に包まれて裸で横たわるパラダイス的情景。夕日に輝いてあるがままに時が止まり、夕闇は訪れない。なぜならばそれ自体が夕焼けだからだと。モーツァルトは精神の深みへ誘い、恐怖が我々を包み込むと較べる。
ライナー・マリア・リルケにおいては、冬に病気で篭りがちな学生が春になって少しは元気になって出てくる。妹たちが夕焼けまで歌って遊んでいる風景。早春の昼の温もりが消えていく様子。子供たちの頬が赤く染まり、仄かに熱を発散するようだ。そしてある少女との親密な情景へと連なる。
フーゴ・フォン・ホフマンスタールは、日没までの情景を小文に丹念に描く。狭い路地に行き当たった、古い壁をはしる女性の目線を追っていく。窓枠や建物の此処彼処に影をつけていく描写は素晴らしい。小さな橋の湿った丸天井に頭を低めながら潜る。周りには年寄りはいない、いるのは泳ぎに来る裸の子供である。そして雲ひとつない青天井の広場に出る。それを囲む宮殿に夕焼けの気配。
グスタフ・マイリンクは、「プチブルジョワの魔法の角笛」などを書いて、後年仏教に改宗する。彼が描く孤独な変人は、窓から秋らしい薄暮を覗く。暗く固まった雲の動きを、遥かに見えない大きな手による影遊びのようだと表現する。霧の先に隠れた悲しい夕焼けを見る。西の空の雲は降りて霧の隙間から星が輝く。男は神がかり的になるが、男が全てを確りと見届けた訳ではないと語る。
以上、幾つかの例を垣間見た。これをもってこの期間のドイツ語圏での夕焼けの文化的意味など探る事は出来ない。しかしこれだけでも多くの共通点と同時に様式に関わらず其々作家のまたは時代の個性が見つかる。それ以外に季節感も面白い。詩の愛読家にとってはこのような作業は今更つまらないかもしれないが、生憎そのような趣味を持たない者は、この様なネットサーチ文学散歩が面白い。小説等もキーワードからその文体が分かり、興味を持つことも出来る。読書習慣の無い者にとって短い文章の中での情景の把握は、どんな言語であろうとも速読の練習になろう。ネットで沢山の古典を無料公開している文学サイトは増えてきている。これをそのような門外漢が有効に使わない手はない。そして何よりも喜ばしいのは、今まで知らなかった事に巡り合える幸せと、己の無知に気が付くときだろう。
フォン・アイヘンドルフの詩は、手を取り合って野山を歩き回った後の一時を写す。安らかな夜を待ち受ける時、全てが深い谷に死のように静まり返っていく風景。秋と思われる。彼が何回も詠んだ夕焼けの風景は、生地のシュレージン地方やボヘミアだろうか。夕焼けに時は止まり、朝の清澄が漂い続ける時と語る。ハレからハイデルベルク大へ進んでアルニムとブレンターノに出会った時期のような気もする。彼らが疲れた足を引きずる風景は、何となくオーデンヴァルトの小道の風景に重ね合わせる事が出来るからだ。
ベティナ・フォン・アルニムは、「魔法の角笛」を纏めた兄のクレメンス・ブレンターノと有名な夫を持つ。それとは別にゲーテ家との親交やグリム兄弟の業績の振興でも活躍した。彼女においては、浜辺の夕焼けに高揚した思いに遠く離れた山にひばりと男の賛歌を響かせる。
ハインリッヒ・ハイネは、デュッセルドルフ出身でボンに学んだ。だからライン河には特別な思い入れがあったようである。ローレライだけでなくボンはバット・ゴーデスベルクのドラッヘンフェルスの夕景を詠む。いくらかゆったりとしたラインの水面に反射する夕焼けの古城である。この情景を自ら最盛期のロマンティックと呼ぶのが面白い。
E・T・A・ホフマンは、ベートヴェンの交響曲は我々を樹木の茂った林(林苑)へ誘うと表現する。子供たちが踊り、彷徨い、笑いながら木々や薔薇の木の陰で、花に包まれて裸で横たわるパラダイス的情景。夕日に輝いてあるがままに時が止まり、夕闇は訪れない。なぜならばそれ自体が夕焼けだからだと。モーツァルトは精神の深みへ誘い、恐怖が我々を包み込むと較べる。
ライナー・マリア・リルケにおいては、冬に病気で篭りがちな学生が春になって少しは元気になって出てくる。妹たちが夕焼けまで歌って遊んでいる風景。早春の昼の温もりが消えていく様子。子供たちの頬が赤く染まり、仄かに熱を発散するようだ。そしてある少女との親密な情景へと連なる。
フーゴ・フォン・ホフマンスタールは、日没までの情景を小文に丹念に描く。狭い路地に行き当たった、古い壁をはしる女性の目線を追っていく。窓枠や建物の此処彼処に影をつけていく描写は素晴らしい。小さな橋の湿った丸天井に頭を低めながら潜る。周りには年寄りはいない、いるのは泳ぎに来る裸の子供である。そして雲ひとつない青天井の広場に出る。それを囲む宮殿に夕焼けの気配。
グスタフ・マイリンクは、「プチブルジョワの魔法の角笛」などを書いて、後年仏教に改宗する。彼が描く孤独な変人は、窓から秋らしい薄暮を覗く。暗く固まった雲の動きを、遥かに見えない大きな手による影遊びのようだと表現する。霧の先に隠れた悲しい夕焼けを見る。西の空の雲は降りて霧の隙間から星が輝く。男は神がかり的になるが、男が全てを確りと見届けた訳ではないと語る。
以上、幾つかの例を垣間見た。これをもってこの期間のドイツ語圏での夕焼けの文化的意味など探る事は出来ない。しかしこれだけでも多くの共通点と同時に様式に関わらず其々作家のまたは時代の個性が見つかる。それ以外に季節感も面白い。詩の愛読家にとってはこのような作業は今更つまらないかもしれないが、生憎そのような趣味を持たない者は、この様なネットサーチ文学散歩が面白い。小説等もキーワードからその文体が分かり、興味を持つことも出来る。読書習慣の無い者にとって短い文章の中での情景の把握は、どんな言語であろうとも速読の練習になろう。ネットで沢山の古典を無料公開している文学サイトは増えてきている。これをそのような門外漢が有効に使わない手はない。そして何よりも喜ばしいのは、今まで知らなかった事に巡り合える幸せと、己の無知に気が付くときだろう。
空と言う、果て在れど果て無き希望を抱く物の存在は、詩を詠む***または詠んでいった人たちにとって、自分の存在意義的価値観との統合を見出したい、何か(この何かが主観、客観、それぞれあっても)的な創造力を掻き立てたのかなぁって紅。は思ったりします(笑)
なんだろう。
流れに身を委ね給う自身の人生血脈の行方は幾度となく形を変える、しかし、変えぬ空の青の行方と同じ。ただそこに在る、季節の感覚をしっとりとこの胸に刻みつつ生きる事の悦びを***みたいなですかね??(言っててお恥ずかしい)
まだ②発展途上の若輩者ゆえ、言語に厳しいかんも否めませんが、宜しくお願いしますm(_ _)m
詩にしても空にしても、季節にしても***肌で感じるその空気が自分にとって常に『感覚』である事を願ってやみません。
それでは失礼いたします!!!
追伸:凄く、素敵な雰囲気の在るブログですね♪
紅。のブログにTBしてくださったお心に謝謝!!
小生も、エッセイなどを綴る際、ネット検索には随分と助けられています。
ところで、夕焼けというわけじゃないけれど、アイヘンドルフから、やや時代の重なるドイツロマン派のカスパル・ダーヴィト・フリードリヒをつい、連想しました。好きな画家だからだと思いますが。
彼の絵には夕焼けの絵はあったのか。朝焼けの絵はあるようですが。
でも、夕焼けと朝焼けとは、画面を見ただけでは区別が難しいかもしれない:
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/F/Friedrich/Friedrich.htm
弥一ですさん、コメント有難うございます。ドリアンさんの所のカスパー・フリードリッヒの絵を拝見。影から、思っていたより東西南北が分かりませんね。幾つかは、情景(鳥の飛ぶ)で夕景と予想は出来ますが。この画家についても以下に少し触れましたので、良かったら覗いて下さい。
ハーブティーのミックス [ 料理 ] / 2004-12-04
読書量が限られているので、文学記事は少ないですがまたコメント宜しく。
まさに膨大な数のネットのサイトの中からみつけて
トラックバックありがとうございました。
よくそらの写真を撮りますが
夕焼けと朝焼けというのはほんとうにわかりずらいかもしれません。
がその場の空気はぜんぜん違うのです。
なにかどうしても夕焼けは寂しい感じです
リルケをきっかけに、『ドイツ文学を夕焼けで検索』
という発想の新鮮さをいただきました。
ヘッセに傾倒していたこともあり、
行ったこともないドイツですが、
郷愁めいたものを感じています。
私はよく、ふと目に付いた言葉や絵や写真に惹かれてしまうもので、そこから自分特有の発見があるとわくわくするたちです。思いがけず、あのドイツの詩にはこのような背景があった事が分かってちょっと嬉しいです。ソクラテスまでは私はまだ辿り着けませんが、純粋にいいなぁと思ってしまいます。
どうもトラバ、有難うございました。
有紀さん、コメントありがとうございます。「検索でリルケ」なら少しは口説けますかね?知らない土地への郷愁、自己の重ね合わせ。ヒット数からリルケの圧倒的な人気が分かりました。それゆえに類型化してそれを語られても冷めてしまうというのも理解出来ます。他の作家と較べられない人気です。面白く思いました。
ampm-1128さん、再度サイト拝見しました。仰るとおりですね。上のコメントで述べたように、言いたい事を明文化する事が思索のはじまりです。その思索の背景からその状況を比較的正しく追体験出来る事になりますね。受け手の感性をどれだけ客観的に位置づける事が出来るかということですか。
私は,写真を撮影するときは,必ず空を見上げます。
被写体が空でなくても,です。
夕焼けが被写体に映りこむ色を切り取るのが好きです。
被写体にちょっとだけ染まる,夕焼け色の風景をこれからも撮影していきたいと思っています。決して主役ではなく,被写体をほんのり染める夕焼け色を切り取るつもりで。
夕焼け色は,もちろん時と場所によって変わります。
しかし,決定的な要素は,空気の質だと自分は思っています。
詩人たちは,その空気を通して表現しているのでしょうね,きっと。
目に見える空気の質。他の感覚を遮断して視る。上昇・下降気流での違いなども非常に微妙ですね。
TB&コメント、どうもでした。
とても綺麗な写真と記事ですね。
抜粋だらけの私の記事が少し恥ずかしいです。
最近疲れていてさぁ・・・
言い訳です。