Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

漸く見えて来た闇の陰陽

2022-11-07 | 
やっぱり面白い、交響曲七番。漸く懸念のスケルツォへと戻る。マーラーが導入から一楽章を書き上げ三楽章スケルツォへと、その創作思考過程が分かればしめたものだ。勿論すぐに証拠を出せるような分析が出来る筈がない。精々もう一度細かな構造を自ら探るぐらいしかない。

これは先日のエンゲルのインタヴューで以外に参考になった。なぜならば名指揮者ズビン・メーターが先生のスヴァロフスキー教授に習った様に、先ずは厳密な「腑分け」するの真っ先かと思っていたので ― 実際にロスでそのようにチェックしている若いメータのヴィデオが残っている ―、それならばと感じたのだった。勿論楽譜にある音をなんでもいいからキーボードで叩けば確認できるという指揮者修行をしている訳でもなく、生憎指が十本しかない平凡な人間には無理だ。

そこで登場するのが裏の手、これは録音監督をしていた人に習ったのだが、その人は元々ピアノの人なので、総譜を見ても自動的にピアノ譜に変換してしまうようだ。それで音が足りている、間違っているかをチェックする。これはとても役に立つ。

それに習って楽譜を見るとなるとどうしても頭を左に傾けて、右手を上に左手を下にの形にして、音楽を読むことになる。それで何が変わるかというと、日本などではよく書かれているようだが縦の線、横の線というような如何にも少なくとも基軸が交差するので分析的に聞こえる音楽の読み方とは違ってくる。

第七交響曲の総譜を見ていてやはり音符が多いと思った。五番も六番も多いのだが、そのシステムの段数があっても同じ音や和音を重ねて散らしているだけならばそれ程多いとは思わない。それこそ直ぐにピアノ譜化して仕舞えるように感じるからだ。でもこの曲は違うところが多い。なによりも楽器間での主題の受け渡しが普通に頻繁に行われていて、更に重ねられると音色が発生するので、勢いグラデーション化する。迂闊だったのは二つ目の夜の歌のセレナードであったり、楽器の受け渡しがシェーンベルクなどの所謂音色旋律とされるそれとは別に重ねられていて、耳で聴きとって認知するにはあまりに複雑すぎるのだ。

そもそもこの交響曲の中心に夜の影があって、実際に短調のトリオが位置して、そこに至るまで闇が最初にあり、光が生じている。それが作曲の過程となっている。様々な文献があって、様々な解説があり、そして様々な演奏記録がある。

試しに幾つかの名録音を摘まみ食いしてみた。ショルティ指揮シカゴ交響楽団の最も機能的に高度な管弦楽団を強い支配の指揮が導いているのだが、何よりも簡略化が起きていて、各声部が強調される傾向があって、それは何よりもアメリカン配置の楽器配置でのバランスの融通が無く、最大問題は拍の差異の扱い方だ。指揮が最も精密な筈のブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏は流石に各声部が浮き上がるのだが、やはり端折りが多く声部が絡む所も無駄にされている。シカゴ交響楽団を振るアバド指揮では構成のテムピ設定やダイナミックスなどが適当に処理されていて、欧州的な主題の扱い方はいいのだが、なによりも長短の和声感が不協和的に塗りつぶされていて、やはりアンサムブルの組み方の準備があまり出来ていない印象を受ける。もうこれは今回センセーショナルな結果しか残されていない。



参照:
オール回旋からの主題 2022-11-06 | 音
核レパートリーに組込み 2022-11-05 | 音

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