Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

持続する宗教的な気持ち

2019-02-24 | 文学・思想
金曜日の夜は、予定通り、二つの放送を同時に流していた。音楽はベルリンから、映像はミュンヘンからである。後者のハイティンク指揮の演奏風景を見ていると感動させられるものがあった。音楽は録画したものやところどころタブレットで確認しただけだが、視覚的なそれと実際の音に殆ど差異が無かった。本当に不思議なものだ。私は、まるで耳が聞こえなくなった楽聖の境地に至ったのだろうか?子供のころから楽聖と言えばこのエピソード無しにはこの作曲家のプロフィールに至らない。

しかしここに来て、ここに楽聖の音楽の核心があると思うようになった。上のハイティンク指揮の演奏をまだ吟味してはいないが、感動したのは僅か二回ほどその指揮に接して、一度は近くでそのたたずむ姿を見たからではないと思う。なるほど映像でも分かるようにこの放送交響楽団の弦楽器陣も決して優秀ではなくクーベリック監督時代からその冴えなさは変わっていない。そしてそれは音でも確かめられる。しかし、そのようなことではない、もはや私の呟きの隠れ取り巻きとなったジェラルド・フィンレーが歌う「このような音ではない」、ここに全てがある。

承前)楽聖の音楽に少しでも熱心になった者ならば誰でも、その音の設計図から打ち鳴らされる物理的な音響とは異なるところにこそ楽聖の精神が宿っていることに気が付く。音響自体はその精神を楽譜という形で書きとどめたものに過ぎないことを。

「ミサソレムニス」に戻ろう。楽聖が注文を受けてミサ曲の作曲に取り掛かる。1818年のことで構想から1819年4月には熱中した作曲へと取り掛かり、ルドルフ二世の式典には完成が間に合わなくなる。これも書簡からはっきりしていることで解説書に書いてある通りだ。その遅滞の大きな理由は規模が肥大化してしまったことも語られる。そこまで聞くとまさしく汲み尽きない創造力ゆえの事情を感じることが出来るのだが、そこからが面白い。楽聖はそこから盛んにこの楽譜を売りに出していたということだ。生活のためだが、マインツのショットに限らず、手当たり次第に十件から予約金を取って回ったらしい。しかし、つまり見本を渡して、全曲が完成しているのにも拘わらず、楽譜をコピーされてしまわないようにグロリアだけを抜いて予約を取り、表向きの完成を遅らせたというエピソードである。もう一つのエピソードは、ザンクトペテルスブルクで全曲初演された事情が、ヴィーンにおけるミサ曲の教会外での禁止から、第九交響曲と組み合されてクレドからサンクテュス、ベネディクスのミサの核心を除いた形でヴィーンで演奏された。この二つのエピソードから何を読み取るか?

なるほどグローリアだけは簡単に渡せなかったのもそれだけよく書けているからだろう。正しくこの曲を「合唱交響曲」と名付けようとした意図もそこに知れるところである。作曲技法的に、丁度後期の作品の特徴として、長短の和声法と対位法的な折衷となり、つまりその間に創作された中期の交響曲などのベートーヴェン的作曲技法のような完成度が無いともいえる。この曲が困難な事情はそうした技法的事情とそして第九のように付け足しではなく全体がミサ典礼のラテン語のテクストやフォームに縛られていることにもあるかもしれない。ところが、楽聖は友人に更に重要なことをこの曲について語っている。「歌うことにおいても、聞くことにおいても同様に宗教的な気持ちを目覚めさせる、それに持続性をもたせる」。この宗教性に関して劇場のマガジンに記載されていて、それはオーソドックスなカソリックの信仰ではなく、楽聖は多神教について言及していたという。このテーマを掘り下げると恐らく最も重要で近いヘーゲルの思索へと進むかもしれない。しかしもう一度この楽聖をプロファイルすると、全てが青年時代に即興ピアニストとして頭角を現したその前歴に浮かび上がってくる。

そもそも後世の作曲家や音楽学者はその作曲形態を理論として扱うことで分かり難くなるものが、突然見えては来ないだろうか。交響曲においても無駄の無いような進行や繰り返しそしてダイナミックスや和声的な流れを見るときに、その即興演奏の才能を思い浮かべると分かり易い。まさしくこの「ミサソレムニス」における全体の構造的な流れもそのように捉えるべきで、この合唱交響曲にはベートーヴェン的な作曲理論が通らないところでもある。勿論ミクロ構造において、しかるべきテーゼ・アンチテーゼに相当する音楽付けがあり、それがポリフォニー的に三次元に広がることも重要かもしれない。

ここまで来ると最後の疑問である唐突な軍楽隊のエピソードの謎も徐々に解けてくるかもしれない。中期の諸作の方をある枠組みに入れてしまうと、即興ピアニストベートーヴェンと後期の諸作における形態がとても上手く調和する。すると今度は「楽聖の精神」の飛翔する方向へと関心が移り、劇場のガイダンスでは「謙遜」という言葉をキーワードとした。そのままのカトリックにおけるそれから逸脱して、それどころか厭戦気分の漂う啓蒙思想の理想主義へと熱を上げたところに宿る精神とは、こうした公開演奏会の形で催されるイヴェントにこそ宿る。楽聖の音楽においての経験とは、歌うにしても聴くにしても繰り返されることでも継続的に宿るものなのである。

更に最初の疑問への答えを出しておこう。つまり演奏云々を言うのは間違いではないかという疑問である。しかし言及したように楽聖自身が宣言していて、演奏行為自体に意味があるとして、このミサ曲においてはアマチュア―の合唱団がその価値を引き継いだことになる。それが長続きする宗教的な気持ちにあたる。するともうそこに見えてくるのは第九の合唱だ。それを実現しているのは彼の極東の国ではないか。(続く)



参照:
ストリーミング週末始め 2019-02-23 | 生活
古典に取り付く島を求め 2007-10-23 | 文学・思想

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