Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

強烈な破壊力の音源

2023-11-28 | マスメディア批評
夕方初めて放送があるのを知った。無事に放送を録音も出来た。6月からの「アシジの聖フランシスコ」公演二回目の公演の中継録音だった。この回だけはアムステルダムに出かける予定で準備していたので、片方がキャンセルになっても出かけなかった。中間部分のオープンエアーには暑すぎたからだ。しかしこれで全公演の演奏は一部でも聴いたことになる。

オープンエアーの部分は容易に収録できないので、一幕と三幕だけの放送であった。先ずは一幕の音楽が重いのに気が付いた。基本的にはライヴでもバスの出し方等は絶えず注意して聴いているので、舞台の上でその様な印象はあまりなかったのだが、各々の場面にとても大きく影響しているのが分かった。指揮者エンゲルを昔のクナッパーツブッシュとか身長2メートル近い巨人クレムペラー指揮としか比較仕様がない強烈な破壊力の源を思い知った。

そのアウフタクトの取り方から音の出方がまるで鉄の巨大球が振り下ろされ地割れするような圧力で迫り、このエンゲル指揮の音楽劇場の最後には劇場ごと熱狂に包まれるその謎解きでもある ― ナガノの取って付けた様なリズム取りでは音楽に為らない。それらが決して指揮によるものではなく演出を含めた制作によると思わせてしまう潜在的な力となっている。

最後の景「死と再生」前に本人が恐らく自宅の電話で答えるインタヴューが流されていて、その部分では自らは洗礼を受けて既に離脱しているにも拘らず、こうした美しいパラダイスが存在するならばという気持ちになったという。決して理性的とは思われないそうした素朴な宗教心などをバッハからアロイスツィムマーマン、メシアンの音楽を得意にした無神論者のブーレーズ、そしてグバイドリーナ迄をなぞって考えてみたと話す。

今回のプロジェクトにおける興味は、最初にピーター・セラ―演出をケントナガノ指揮でザルツブルク音楽祭観た時からのもので、2002年に私が会った時に話していたのかどうかは記憶にないのだが、ベルリンの制作では助手として馴染みがあったらしい。少なくともそれと比較すればそのリズムとフレージングの丁寧さが音楽の感情表現となっていて、アシスタントをしていたカンブルランの指揮演奏よりも遥かにいい。

それは日本でも演奏会形式で演奏された様だが、一幕でもそれでは何をやっているのか全く分からなく追々音響的な面白さに依拠しがちになるだろう。今回は音響の空間性をコンセプトに入れてあったので、舞台の奥の管弦楽団では遠くなる木管群に強く吹かせ、手前の歌手との問題はそれ程難しくなく、三幕の奈落では歌に被らないように、さらにシュトッツガルトの深い奈落では重くならないようにと留意したようだ。そしてオープンエアーではPAをドライな音に潤いを与えるようにエコーも入れさせて、更にライヴエレクトリック的な調整もさせたという。そして、試奏の春にはより盛んだった鳥の囀りは若干弱くなっていて街の雑音や飛行機は邪魔ではあったが、千秋楽での本当に美しい静寂での鳥たちとのレスポンスは作曲家も喜んだに違いないと。

そうしたラウムクラング自体はヴェニスのガブリエリ然り、シュトックハウゼン然りで当然のことながら音楽表現として重要な音楽要素であることは変わりない。演出には決して口出しはしないが、こうした興味深い制作で、それが協調作業によって大成果を上げるのがまさしく音楽劇場の指揮者として第一人者のティテュス・エンゲルの仕事である。
SAINT FRANÇOIS D’ASSISE II, So., 9. Juli 2023 (17:56), Killesberg Stuttgart




参照:
Olivier Messiaen: "Saint François d'Assise", SWR2
時代がまだついて来ない 2023-11-27 | 文化一般
制作者の目、その選択 2023-09-29 | 文化一般

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 時代がまだついて来ない | トップ | 必ずしも希望ではなくとも »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿