Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

思索の向かうところ

2019-09-19 | 文学・思想
ベートーヴェンの創作過程を思っていた。いつの間にかルツェルンでのガイダンスの感動が戻って来た。なにに感動したかも思い出してきた。8月28日19時30分始まりの演奏会の丁度一時間前から開かれたスザンヌ・シュテール女史の話しの内容だ。フェスティヴァルのテーマは権力だったので、プログラムにあるような社会学的な見地からの啓蒙思想の悪用だったかと思ったが、全く異なっていた。

既に触れたように子供の時から知っている聴覚の障害から第九の初演で指揮をしていて終わって拍手が一斉に湧いていても気が付かなかったというような話しがステレオタイプに染みついていて致し方が無いのだが、そのことを誰に充てたのか失念したが手紙の文章として手短に読み上げた。それで本会場の十分の一にも満たないような聴者が皆感動した。

どこに焦点があったかと言うと、聴覚障害で人とコミュニケーションを取るために大部残されたノートを使っていて、自身の発言は話せるので書かれていないような状況だった。そして益々内面へと創作の創造の世界が広がって行き、最終的には大変憂慮される創作者を取り巻く社会から環境から閉ざされ閉ざす形で創作が進んで行ったという事にある。一神教的な世界観を超えて、宇宙の果へと連なるような理想への恣意である ー まさしく心より出でてと言うのは、偽りの無い信条で、想いが通ずる。その意識が伸びて行く方向へと言葉が導く。そのことに皆が感動したのだった。

のちほどこの話しを纏めてみると、丁度指揮者のキリル・ペトレンコが楽団の前で話した内容と同じ方向へと意識を向かわせる内容だったのだ。実践を通したカント的美が問われる ー この間詳しく一連の公式ヴィデオを追ってきた人は、ここで指揮者が春から語り、そのブレーンの博士によって解説されていた悦び、ルル組曲への視座がここから発していて、指揮者の言葉の裏付けをそこに見出すだろう。そのインタヴューをシュテ―ル女史が予め知っていたのかどうかは分からないが、ベルリンの初日の演奏を聴いた耳には、この話しが妙にその演奏内容に通じていることを無意識に感じておかしな気持ちになったのだった。

こうした所謂「深い話し」は ― 嘗て日本の大木正興と言うベートーヴェンを得意にしていた音楽評論家が言うと「フカーイ」のだ ―、ボンのベートーヴェンフェストの監督ニケ・ヴァークナー博士のお得意の価値判断でもある。そして初日のその基調講演の報告が新聞文化欄に出ていた。そしてその内容が全く楽聖のそうした精神活動ではなく、以前ヴァイマールでやっていた彼女のお爺さんリストの話しになって仕舞うと批判されている。要するに楽聖についてその創作世界に付いて語っていなかったというのだ。

それは、なにもベートーヴェンだけでベートーヴェンを語る必要もないという事では矛盾しないのかもしれないが、全ては話し手の先入観念と独自の価値観でしか語られていないとあった。恐らく最早このヴァークナー家の人について語る必要もないのではなかろうか。座席占有率が新作演奏会でもないのに七割にしか届かない現実は、その会場難の問題があるにしても、少なくとも有名人演奏家を集めないというだけの興業上の問題ではない。

ペトレンコ指揮カウフマン登場のコルンコールト作「死の街」初日の一般発売が始まった。既に配券されていたので何となく十五分過ぎたぐらいに販売状況を見て驚いた。ベルリンへの就任が決まって以降の今までは音楽監督が振る新制作初日シリーズは、その時点では800超えくらいのウェイティング番号しか得られなかったが、400番超えを貰って、忘れてから一時間ほど経過した11時10分過ぎにもまだまだ配券されたものよりお得な券が買えた ― 「オテロ」までは30分以内で買えなければ完全に売り切れとなっていた。なるほど売り方を少し変えて、抽選外れの人に優先的に配券されるシステムに変わっている。しかしであるが、この珍しい曲の人気の無さである程度の低調ぶりは想定していたが、またシステムの変化があってもカウフマン人気でのこの出方は想定を遥かに下回っていた。正常化は喜ばしい。



参照:
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
コメント
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