Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

フクシマ禍から蜂の巣へ

2019-09-16 | 文化一般
承前)ルツェルンでの演奏会評が次のように始まっていた。一楽章が終わって、一人の男が「分からないけど、そんなに良くないと思うな」と言う声が平土間に響いたというのだ。つまりそれほど正確に合っていた訳ではない合奏を称して言ったとなる。そうした緊迫感が、蜂の巣をつついたような興奮へと変わったとノイエズルヒャー新聞は報じていた。

正直なところ平土間の雰囲気はなんとも分からない。通常とは異なる聴衆が押しかけていたことは、メインスポンサーがアムコとやらの地元の世界的な人材派遣業者が仕切っていたことから想像に難くない。目の届く範囲でも前半のルル組曲へのあまりにも冷淡な反応は驚くばかりだった。

三楽章の稀なる名演からアタックで四楽章へとスリリングに突き進み。様々な回想がされることで、若しくは三楽章までのベートーヴェンからマーラーへの九番の変容またはブルックナーへの影響を垣間見たところで、件の合唱付きへと進む。

ここ数年ベルリンではミュンヘンの後任監督のユロスキー指揮で嘗てのミヒャエル・ギーレンによるモンタージュ手法のアイデアを踏襲して「ヴァルシャワの生き残り」がそこで挟まれたりと演奏されることで、新たにその意味するところが問われていた。今回は「ルル組曲」そして翌日のヴァイオリン協奏曲へと繋がれる。再度、クラスティング博士のオリエティーリング映像と指揮者キリル・ペトレンコのインタヴューを初めて観る。新たな情報はないのだが、第九の創作過程に関して、二人が手分けして語っていることがよく分かった。プログラム作りに於いてこの二人の間での対話があったことがよく分かる。

改めて、この合唱付きの四楽章が先ず有りきだとそのスケッチからこの指揮者は断定している。それも歌の部分からで器楽によるレチタティーヴは後に書き加えられたとあり、全体の叙述法としてもそこから演繹的に前の三楽章へと創作が進められているとなろう。そしてルツェルンでガイダンスであったシラーのオード自体は酒飲み歌でありながら、出版直後のボン時代に言及があって音化が試みられているとぺトレンコは語る。しかしである、他の3Fとされる「フィデリオ」から「ミサソレムニス」へと長い時間のスパンの中で創作が形となって来た。交響曲ツィクルスの不必要性の根拠でもある。

その背景の社会情勢として、フランス革命の完成以前からナポレオンへの失望、メッテルニッヒ政権その秘密警察組織へと現在の世界情勢と楽聖の失望を重ねる。キリル・ペトレンコは、練習の時に珍しく演説したようで、楽聖の聴覚・視覚障害は肉体的なものだけではなく、外部世界から自閉するような創作の内面世界だったと語ったようである。一楽章から三楽章へと具体的にカタストロフであるフクシマ・チェルノブイリ禍からアウシュヴィッツを経た失楽園へと、全ては終楽章へと準備されている。そしてそれは一神教的なものではないと断定する ― 楽聖の仏教への言及にも関連。

当然のことながら通常は待ち構えられる歌唱部分の違和感が、なんら抵抗なく演奏されるようなテムポ配分がなされている訳で、そのことによってのみでこの演奏実践の成功が記されることになる。ルツェルンでの個人的な印象は、少しおかしな聴衆の反応を除けば、目的としていた終演後のスタンディングオヴェーションの遅れもよく分かった。理由は至極簡単で、指揮者が手を下ろして終わりを宣言するそぶりを中々出さずにいたからだ。確かにブレゲンツでの千人の交響曲においても直ぐに聴衆の方に向き直ることは無いのだが、ベルリン初日でも遅れていたので不思議に思っていたのである。

演奏会としては二日目の前半がクライマックスであったことは皆が認めるところだが、一日目の最後のスタンディングオヴェーションはそれなりの意味がある。欧州においては通常の演奏の是非ではスタンディングにならないという事である。それほど米国のようにプロテスタント的な意識は強くない。主張に賛同を示すという行いは、まさにこの曲の演奏実践とその趣旨に対して行われるものだ。私のようにその真意を少なくとも今冬から探っているような人間は極稀であって、3Fプロジェクトを把握しているのは音楽ジャーナリストでもそれほど多くはない。しかし殆どに人が立ち上がった。これだけで成功ではなかろうか。

そして10月3日のドイツ統一の日にバイエルン放送局で初日の演奏が再放送される。クラスティング博士がガイダンスで演奏前の収録で話していた通りになっている。ノイエズルヒャー新聞が勇気という事でもあり、同時に前述したようなシェーンベルク~アルバン・ベルク~グスタフ・マーラー~チャイコフスキー~ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンへと大管弦楽音楽を網羅しているのだが、それに関しては敢えて無視しているかのように触れていない。寧ろ、あまりにもの具体的な第一楽章や三楽章をマーラー風と切って欲しかった ― 後任バイエルン音楽監督ユロスキーのマーラー編曲演奏の異なった表現方法であった。(終わり)



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
ドンドンガタガタ足踏み 2019-03-10 | ワイン
3F - 喜び、自由、平和 2019-04-30 | 文化一般
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