ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

それでもチェコは戦う - 3 ( チェコスロバキアの歴史 )

2019-06-12 21:19:25 | 徒然の記
 書評に入る前に、チェコスロバキアとはどういう国なのか、概略だけでも知りたくなりました。かってテレビの報道で欧米諸国の人々が、日本のことを全く知らず、中国や朝鮮との区別もできないと知り、嘆いたことがあったからです。
 
 バールタ氏が熱い思いで語る祖国について、何も知らぬまま書評している自分が恥ずかしくなりました。同国が現在、チェコとスロバキアという、二つの国に分離していることさえ知李ませんでした。( 平成5年  チェコ共和国とスロバキア共和国に分離・ビロード離婚 )
 
 3年前ノルウェーへ行き、三週間ばかりの滞在でしたが、北欧について自分の無知を知ると共に、感動もしました。ノルウェーは第二次世界大戦後に独立国となるまで、それまでの515年間は他国に支配されていました。
 
 デンマークに130年間、スェーデンに380年間、ドイツに5年間支配されました。この間ノルウェーの人々は耐え続け、やっと念願の独立を手にしました。日本に帰ってきて、私はブログに次のように書きました。
 
 「敗戦後の日本は、戦後74年が経過しても対米従属から抜け出せないが、手本とすべきノルウエーがあった。」
 
 憲法を改正し、自国防衛のできる普通の国に戻ること、ここから日本の独立が始まるというのは、多くの国民の願いですが中々ことが進みません。それだけに、失った独立を取り戻すまで、515年間も頑張ったノルウェーを知ると励まされました。
 
 バールタ氏の著書で新たにチェコスロバキアを知り、同じような感慨を得ています。スエーデンと違い、チェコスロバキアはもっと複雑な歴史を持っていました。
 
  氏が詳しく説明していますので、紹介します。
 
 「1918 ( 大正7 ) 年、第一次世界大戦後に独立国となった時、国土の西半分のチェコは、すでに高度に産業の発達した地域だった。文化的水準も、生活水準も、比較的高かった。」
 
 「しかし東半分を占めるスロバキアでは、事情が違っていた。」「千年間ハンガリーの一部だったスロバキアは、文化的にも、政治的にも、とりわけ経済的には、著しく異なった発達を遂げた。」
 
 「ほとんど工業が無く、完全に農業地帯で貧しかったスロバキアは、工業地帯として豊かなチェコのための、」「安い労働力の供給源に、なったのである。」「両国を結ぶ絆となったのは、共通の民族の起源、すなわちスラブ族であることと、非常によく似た言語である。」
 
 「一つの国になったとはいえ、経済的に低い地位にあるスロバキアは、政治的にも低い地位となり内部対立の要因を抱えていた。」
 
 これから先も私の知らないことばかりで、小国の悲哀を知らされます。
 
 「1918年の独立時から、チェコスロバキアは海外政策の基礎を西欧に置き、特にフランスを中心としていた。」「最初の憲法は、かなりの程度までフランス憲法の模倣であり、国家形態は、フランス、アメリカ、英国の中間的なものであった。」
 
 「国家権力が、やがてファッショ化したポーランドやハンガリーやルーマニアと違って、チェコスロバキアは1939 ( 昭和14 )年に消滅するまで、ブルジョア・デモクラシーを採用し、中部ヨーロッパで、西欧民主主義の、いわばショーウインドーとなっていたのである。」
 
 「チェコスロパキアの主権と安全は、主として、フランスとの同盟条約によって、保証されていた。」
 
 説明を読みながら、私は心の中で日本の現在を思い、フランスをアメリカと読み替えながら文字を追いました。大国は自国の利益のためなら、小国との同盟を平気で破るという、歴史の教訓を見ました。
 
 複雑な動きを、どこまで息子たちに説明できるのか自信がありませんが、ざっとだけ推移を述べます。
 
  1.  フランスが、ドイツのチェコスロバキア侵略を黙認した。(フランスへの失望と怒り)
 
  2.  ドイツに侵略され、支配された。
 
  3.  社会主義国ソ連が、ドイツと戦い救ってくれた。( ソ連への感謝と崇拝 )
 
  4. 今回、昭和43年 ( 1968 )、ソ連が武力介入して来た。(ソ連への失望と怒り)
 
 チェコスロバキアの国民は、感謝していた国から、二度煮え湯を飲まされたことになります。フランスとソ連です。どんなに悔しかっただろうと痛みが伝わってきましたが、それだけではなかったのです。3番目の話には、裏がありました。
 
 ドイツと戦っていたのは、米英仏とソ連で、敵対する資本主義国と社会主義国のソ連が手を結んだのは、ナチスドイツ打倒のためでした。西欧陣営にいたチェコスロバキアを、ドイツから救うべきは欧米諸国のはずなのに、なぜ彼らはそうしなかったのか。氏の説明によりますと、「ヤルタの密談」で、欧米の大国とソ連が、取引をしていたからです。
 
 ヤルタ会談での密約といえば、日本も無関係ではありません。ソ連の参戦を促し、北方領土を奪わせたのは同じヤルタ会談でした。チェコスロバキアもそうだったのかと知りますと、他人事ではなくなります。
 
 息子たちに言います。日本には反日左翼の平和主義者と人道主義者がいて、今も日本の戦争責任を叫び、憲法改正に反対しています。どうか、彼らの真似だけはしないで下さい。
 
 本日はスペースがなくなったので、続きを次回とします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする