2. 「 検非違使 (けびゐし)」
大弦が緩み大乱となっていく様子を、渡部氏が語っていますが、藤原忠平も将門も純友も、今回の登場者には惹かされる人物がいません。自分の気持ちが冷めたのか、人そのものに魅力がないのか、山陽の詩のせいか、一向に熱が入りません。頼山陽は『記紀』の記述を熟読翫味し、『日本楽府』を書いていますので、魅力のない人物が語られているとすれば、原因は元本の『記紀』にあります。
ご先祖さまのされたことが今の歴史につながると考えている私は、日本の過去を否定する左傾・反日の人々を嫌悪していますが、今回のように誇らしくない事績は読む気力が薄れます。
こういう時は初心に戻り、著書の最初に氏が述べていたことを、思い返す必要があるのかも知れません。
「左翼系の学者は、『記紀』を皇室賛美のための非科学的な書と批判し否定しますが、『記紀』には皇室の素晴らしいことだけが記録されているのでなく、兄弟が殺しあったり争ったり、皇室に不都合な事実もたくさん書かれています。『記紀』は、ご先祖の事績がそのまま記録されている貴重な資料なのです。」
その資料を今読んでいるのだと言い聞かせ、「 検非違使 (けびゐし)」の詩に臨まなくてならないのかも知れません。
「頼山陽の主張は、大陸では次々と王朝が衰微して交代していくのに、日本の東の海には、常に変わらぬ一つの太陽が輝いているのだというところに力点があります。つまり、日本の皇室が万世一系であるということです。」
「典型的な皇国史観といって良いであろうが、重要なことは、皇国史観が世に溢れていたので頼山陽がこの詩を作ったのではなく、山陽の史観が普及したために明治維新が実現したところにある。その政府が作った帝国大学を中心に、皇国史観が全国に普及したことである。」
「戦前・戦中の皇国史観には神がかりの要素が混じり、弊害の面も少なくなかったが、戦後にそれが、科学的史観、唯物史観などに手酷く批判され、一種のタブーにさえなった感がある。」
「しかし戦後40年以上経った今日、冷静に考えてみれば、日本の歴史の最大の特徴は、皇室が一つで、しかも神話の時代から続いているというところにある。西洋で言えば、アガメノン王の直系の子孫が今もなおギリシャ王であり、ロムロス直系の子孫が今のイタリア王であるが如きものである。」
「神話自体との連続性で国が成り立っているのは、イスラエルくらいのものであろうが、ユダヤ人には国土のない時代が二千年ほどもあるから、日本とは同列に語れない。」
今自分が読んでいる頼山陽の詩は、そういう貴重な歴史を詠っているのだから、登場人物に魅力がないなどと、そんな次元の低いことを言ってはダメだという気になります。
「これに関しては、頼山陽より約一世紀半前に、すでに古学派の伊藤仁斎が、日本が唐土より優れている点として認めていたのである。」
26ページの叙述ですが、儒学者・伊藤仁斎が、頼山陽より150年も前に皇国史観を唱えていたという話を、読んでいたのに忘れていました。
「儒者の中にはシナかぶれの者もあったが、伊藤仁斎のような人が早くからおり、その考え方が頼山陽にまで続いたのである。こうした学者たちの歴史観が日本人に自尊心を与え、国民の核となったから、白人たちがアジア・アフリカ諸国を植民地化した時代に、日本が国の独立を守れたのである。」
そして氏は、聖徳太子以来の日本の伝統として二つをあげています。
1. 万世一系という事実の中に、国民的自信の拠り所を持つ伝統
2. いかなる大国とも、対等につき合おうとする伝統
伊藤仁斎が言い始めた皇国史観は、150年後に頼山陽に受け継がれ、幕末に吉田松陰が勤皇の志士たちに伝え、明治維新につながりました。敗戦後の日本では、左傾の学者たちが科学的社会主義の立場から完全否定しましたが、渡部昇一氏や田中英道氏たちが再び国民に伝えようとしています。
戦後教育で育った私には、皇国史観が日本の政治体制として絶対のものと思えず、「王政復古」にも、幕末の志士たちのように心の奮い立つ感激を覚えません。だからと言って、今日の左傾・反日の政治家や学者たちが、「日本の歴史」を否定し、伝統や文化を蔑む姿勢には、当然ながら賛成できません。自分の国を大切にしたり、愛したりすることを、「軍国主義」、「植民地主義」といって切り捨てる人々が跋扈している日本を見過ごす気にもなれません。
機関紙『あかはた』の発行部数が激減し、党財政が傾いている共産党や、社員の給与カットに踏切り、希望退職者を募っている朝日新聞を見ていますと、歴史の曲がり角にある日本を感じさせられます。
「ねこ庭」で息子たちにいつも語っている二つの意見は、頼山陽や渡部氏の皇国史観にそのままつながらないとしても、「愛国」という根っこが共通しています。
1. 「憲法改正」・・自国を守る軍隊を再建し、日本を普通の国にする
2. 「皇室護持」・・国民の敬愛の中心としての皇室を、国の宝として守る
自分の住む国に誇りを持ち、自分の国を愛することは、時代が変わっても世界の人々が共有する「思い」です。何気なく読み過ごしていましたが、こんな私のような迷える読者のため、氏は幸田露伴の言葉を紹介していました。
「人間を動かすのは事実でなく、事実として受け入れられたものなのである。事実が嘘か本当かは別として・・」
「旧幕の人たちが、また明治維新を起こした人たちが、どのような話を日本の歴史として信じていたのかを知ることに意味がある。そのこと自体が歴史なのであるから・・」
そうか、そういうことだったかと納得し、身を引き締めて次回に臨みます。2. 「 検非違使 (けびゐし)」の続きです。
何ときっぱりとした言葉なのでしょう。
思わず何度も何度も繰り返してしまいました。
事実だけを追い求めるなんて
その時代に生きていない人間には絶対に無理な部分が出てくると思います。
でも「人が事実として信じて連綿と受け継がれてきたもの」は
ゆるぎのない歴史の一コマであり、それもまた事実なんだと
・・うまく言えませんが、そんな風に思う事が出来ました。
事実という言葉は、正義という言葉によく似ています。
「人間を動かすのは事実でなく、事実として受け入れられたもの」・・露伴の言葉はそのまま、次のようにも言い換えられる気がします。
「人間を動かすのは正義でなく、正義として受け入れられたもの」
事実は、見る人によって違った姿になります。安倍氏を暗殺した人間がいるというのは、「事実」ですが、ある者は「蛮行」と呼び、ある者は「英雄的行為」と呼び、ある者は「卑劣な犯罪」と呼びます。
幸田露伴の非凡さは、「事実」のこうした曖昧さを分かりやすく語ったところです。
ねこ庭の片隅に涌いたボウフラ君が、さっそく喜んでいます。
「お前らの信じる事実が嘘だってことを、白状したな。」
露伴の使う含蓄のある言葉も、受け取る者のレベルによって変化することが分かります。心の貧しい人間は貧弱な解釈をし、心の豊かな人間は正確な解釈をします。
「学びの庭」である「ねこ庭」の広さが、水溜りの周辺で飛んでいるボウフラ君には分からないようです。まして、共産党親派が次第に細っていく状況を知るはずもありません。
参考のため、露伴の言葉とボウフラ君の言葉を、紹介いたしました。