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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 京都府宮津市

2025年08月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・京都府

宮津市(みやづし)は京都府北西部、若狭湾支湾の宮津湾に面する市です。舞鶴市、福知山市、京丹後市、与謝郡与謝野町・伊根町に隣接。中国山地の東端である丹後山地から日本海に向けては比較的急峻な地形で、市境付近は標高500~700mの大江山連峰が尾根を連ね、海岸に向かって傾斜。面積の約8割は山地に占められ、南部と北部が天橋立の砂州によってつらなる特異な地形を有しており、 L 字型に日本海を抱くような形となっています。天然の良港宮津港を有し、江戸時代は本庄氏の城下町、西回り航路寄港地として栄えてきました。日本三景の一つである「天橋立」や、日本三文殊の一つ「智恩寺」、夏には多くの舞水浴客で賑わう「由良海岸」などを擁し、京都府内では京都市、宇治市に次いで観光入込客数の多い自治体として有名です。「市の木:黒松」「市の花:ミツバツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「日本三景・天橋立のある街 自然と文化の架け橋、海園都市みやづ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、与謝郡宮津町・栗田村・吉津村・府中村・日置村・世屋村・養老村・日ヶ谷村・城東村・上宮津村、加佐郡由良村が発足。

1924年、与謝郡宮津町が城東村を編入。

1951年、与謝郡宮津町が上宮津村を編入。

1954年、与謝郡宮津町、栗田村、吉津村、府中村、日置村、世屋村、養老村、日ヶ谷村が合併、市制を施行し宮津市が発足。

1956年、加佐郡由良村を編入、現在に至ります。

マンホールには、宮津湾と阿蘇海を南北に隔てる「天橋立」がデザインされています。(宮津市字大垣付近のカラー歩道)

「天橋立」

仕切弁には「知恵の輪灯篭」と「天橋立」がデザインされています。

プラ汚水桝には「知恵の輪灯篭」と「市の木:黒松」がデザインされています。

「天橋立駅前の知恵の輪灯篭」

昭和29年(1954)8月10日制定の市章は「みやづの頭文字[ミ]=Mを中心に、円の先端は[ヤ]、全体を通じて[ツ]を表し、Mの部分を天橋立に見立て波状で観光と海港をイメージしています。」公式HPより

笠松公園のキャラクターは「天橋立」創造と共に生まれた妖精『かさぼう』

天橋立キャラクターは、天橋立の松から生まれた『あまぼっくり』。微妙に頭がお揃い😊

撮影日:2010年11月3日&2014年11月22日&2017年6月12日


夢コスモス園 in 京都府亀岡市吉川町

2025年08月25日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市吉川町穴川地区で毎年10月になると開催される「亀岡・夢コスモス園」。亀岡運動公園体育館の隣、約4.2haの広大な園内には、20種800万本のコスモスが咲き誇り、まさしく関西一の呼び名にふさわしい光景が広がります。

品種が色分けされて並ぶ花畑。視界いっぱいに広がる花の渦の中に埋もれて見上げる空の鮮やかさ。ふと見上げた彼方にうっすらと濃く丹波の山々が顔をのぞかせ、そしてまた鮮やかな花々が視界を埋め尽くす。

休耕田などを利用したコスモス園とか、何度か見に行ったけれど、こんなにも様々に色鮮やかな花に埋もれるなんて、多分初めての経験ではないかしら?

お昼時は、「丹波味わい市」で買っておいた出来立ての「黒豆ごはん」に「栗炊き込みご飯」。この丹波栗の大きな事😆、何だかとっても幸せな気分。

幸せ気分をさらに盛り上げてくれるのが生バンドによる「コスモス演奏会」。カントリーウエスタンの軽快な音にのって、ついついお箸が進み、心が弾みます。

目と耳と舌で存分に楽しんだ後は、再び満開の花の渦の中に。花に浮かれた私たちを出迎えてくれるのは、思い思いに趣向を凝らした「案山子たち」

その時々の時代を反映してか、流行りの映画を題材にしたものが多く並んでいます。創作案山子コンテスト人気投票、私の一押しは「パイレーツオブカリビアンのジョニーディップ」。御亭主殿は。不思議なボディの「スーパーマン」に一票でした。

五感の全部で秋のひと時を満喫した亀岡・夢コスモス園。最後はお土産用の花摘み(有料)。どれにしようかと迷うほど色とりどりのコスモスに心が揺れてます😀

「オータムビューティ」

「ソナタ」

「シーシェル(ピンク)」

「イエローキャンパス」

「ピコティ」

「ダブルクリック」

「サイケ(ホワイト)」

訪問日:2006年10月14日


ふらり亀岡~あちこちウォッチ in 京都府亀岡市

2025年08月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町、稗田野神社参拝の折にちらりと見かけた「大石酒造・酒の館の酒蔵見学」の看板。丹波と言えば有名な「丹波杜氏」、関西の著名な酒蔵では欠かす事のできない丹波杜氏本場の酒蔵見学・・これはもう素通りできません。

開放された屋外の建物内にも、私には用途の分からない道具たちが整然と並べられており、一つずつきっちりと見て回ったら、余裕で時間オーバーの予感😓

店内に入り、酒蔵を見せて頂きたいのですがと伝えたら、自由に見学くださいと二階へ案内されました。

「ここは戦前から戦後にかけて清酒の仕込蔵として使用した本造蔵です。内部の貯蔵庫は、明治時代の建物で約100年間、原種の貯蔵庫として使用してまいりました。一階は釜場と船場があり、それに仕込桶やタンクが設置されており二階は酛に麹をつくる室があります。」

タンクが並べられた「旧貯蔵庫」の神秘的な静けさ。「製麹室」の奥には白い布をかけられた麹が静かに目覚めを待っています。

館内には酒造りの道具などの他に、本当に種々雑多な「モノたち」が所狭しと並べられています。

古い時代の酒瓶に看板、お酒を楽しむための種々の道具、何もかも目新しくて、何故か懐かしい不思議な感覚。

壁に掛けられたゆかしい飾、もう少し広い玄関だったら真似てみたいね。

思いがけない楽しい時間を過ごし、御亭主殿のたってのお願いで😁「翁鶴:甘辛セット」。私用には「丹波黒豆きんつば」をお土産に酒蔵を後にしました。

「稗田野神社」近くで見かけた「とこなげ山」の碑。帰宅後に調べた所、空海が白鹿に導かれ、松の枝に独鈷杵を見つけた場所とされ、「獨鈷抛(とこなげ)山:千手寺」という名刹があるらしい・・「床」ではなく「獨鈷」なのねと、妙に納得。

街道沿いに二箇所だけ設置されている「人形浄瑠璃台灯篭型バス停」。亀岡市稗田野町地域に伝わる「佐伯灯篭」の舞台となる台灯篭を模したものです。

国指定重要無形民俗文化財「佐伯灯籠」は、五穀豊穣を祈願し、祖霊の冥福を祈る4つの神社の合同祭礼。人形浄瑠璃は、台灯籠と呼ばれる移動式の舞台で演じられる催し物で、独特の構造を持つ35㎝ほどの串人形を1人で操るのが特徴です。

こんな小さな人形たちが紡ぎ出す浄瑠璃の世界・・いつか本物を見てみたいね。

国道372号線篠山街道は灯篭街道と呼ばれ、道路沿いにいくつもの「切子灯籠」がたてられています。

案内には「歴史遺産が多く点在する国道372号線に、灯籠83基、バス停二基を設置し、「灯篭街道」として歴史の舞台を訪ねてほしいとの願いをこめ整備した」旨が記されています。

訪問日:2009年5月30日&2010年6月28日


龍潭寺(りょうたんじ) in 京都府亀岡市薭田野町

2025年08月24日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町太田東谷に門を構える臨済宗妙心寺派「金剛山:龍潭寺(りょうたんじ)」。京都の世界遺産・「龍安寺」、南丹市八木町の「龍興寺」とともに「妙心寺派の三龍寺」と呼ばれます。

「妙心寺第六世『雪江宗深』が庵を設け、大梅寺というお寺とした後、弟子である『特芳禅傑』が移り住み開山。古い室町時代の典籍や絵画などが数多く残され寺宝とされています。昔から子供のかん虫に効き目があると広く信仰を集めてきました。」

境内にあった露岩を生かした庭園は、府の名勝に指定されているようですが・・庭園というありきたりの言葉では言い表せない、神秘で幽玄な景色が広がっています。

庭園の一画に「故陸軍歩兵二等卒堤市之助碑」

底の深さも見分けられない池の畔、うち捨てられたかのように苔むす巨石・・・生い茂る草木

名もなき石仏たちは一つに集められ、幾年も、行きかう人々を静かに迎え、見送ってきたのでしょう。

経蔵の屋根から境内を見守る龍の姿が目に残る・・

木々に隠れるように左手に建つ「経蔵」、右手に「開山堂」が並びます。

経蔵の天井から下界を見下ろす龍の圧倒的な力強さ。できれば真下から写したかったのですが・・

あれもこれも、見た筈なのに何にも残していない・・まるで素通りしてしまった感が否めません。本来であればもう少し丁寧に参拝しなければと思いつつ、次を急いでしまうこの貧乏性、改善できそうにありません😅

参拝日:2010年6月28日


穴太寺(あなおじ)in 京都府亀岡市曽我部町

2025年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市曽我部町穴太東辻に門を構える天台宗寺院「菩提山・穴太寺(あなおじ)」『薬師薬師如来』を本尊とします。西国三十三所第二十一番札所、御本尊は『聖観世音菩薩』。

 宝永2年(1705)の再建とされる仁王門(京都府指定有形文化財)の内陣より境内を守護される仁王像。木肌の感じからそれほど新しいとも思えませんが、ボディビルダーのような上半身が朱の色と相まって独特の雰囲気を醸し出しています。

穴太寺観音縁起によれば「慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。応仁の乱の戦火によって伽藍が被害を受ける。天正年間(1573年 - 1593年)には、明智光秀の丹波攻めに巻き込まれて焼失。17世紀中頃に行廣上人が再興。享保13年(1728)に本堂が焼失するが、享保20年(1735)に再建している。明治29年(1896)に本堂の天井裏から釈迦涅槃像が発見された。」

京都府指定有形文化財の本堂 は、享保20年(1735)の再建。内陣に鎌倉時代の作とされる木造釈迦涅槃像(なで仏)が安置され、布団が掛けられており、自分の体の病のある部分と同じ涅槃像の体の部分を触ると参拝者の病気がよくなると伝わります。

今回「涅槃像」は拝観できませんが、本堂の縁に座し、人々の痛みを和らげるとされる「賓頭盧(おびんづる)さま)」を撫でさせていただきました。こちらの賓頭盧さま・・見知った人に妙に似ていて、何故だか目の奥に熱いものが・・

広い境内には沢山の伽藍があり、半数以上が府または市の文化財に指定されています。仁王門を入ってすぐの左手に建つ「多宝塔 」は、京都府指定有形文化財。文化元年(1804)の再建。

朱塗りの玉垣の中に鎮座される「鎮守堂(天満宮)」。18世紀中期の建立とされ、府登録文化財に指定されています。

玉垣の内より聖域を守護されるのは浪花系の狛犬さん一対。しっかりと四肢を踏ん張りつつ、にこやかに参拝者を出迎えてくれます。

「仁王門」をくぐった直ぐ右手に、亀岡市指定有形文化財の「鐘楼」。宝暦9年(1759)の建立。

本堂の屋根より境内を見守る留め蓋の獅子さん。一見同じように見えますが瓦が焼かれた土地によってそれぞれに特徴があり、それを見るのも私たちの楽しみの一つ。

できれば阿吽の一対で画像に残したいのですが、何しろおいでになる場所が高所過ぎて、その上持っているデジカメはお財布にやさしい代物なので😅

もっと余裕をもって参拝すれば、まだまだ多くの建築物に出会えたのですが、どうしても一度外に出るとあそこもここもと欲張って後で「しまった!」と後悔することになります。と言いつつ、毎回同じ後悔を繰り返しています😁

ご詠歌【かかる世に 生まれあふ身のあな憂(う)やと 思はで頼め 十声一声(とこえひとこえ)】

穴太寺の近くに建之されていた「圓山応挙誕生地」碑。江戸時代、1733年、円山応挙は、丹波国桑田郡穴太村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男に生まれ、9歳のころ金剛寺に小僧として入門。絵の才能を見出され狩野派:石田幽沈に弟子入りし、その後写実を基本とした円山派を樹立します。「足のない幽霊」を描き始めた最初の画家とも言われています。

参拝日:2010年6月28日