本日は前回の続きで、軍部と協力した官僚の戦争責任についての意見です。
「今日では軍部が全ての責を負っているが、エリート官僚たちにも、同じように責任があった満州への軍事介入から、広島空爆に至るまでの、15年にわたる国内社会体制は、単なる軍事事情では決してなかった。」
「官僚は、権力主義的計画に中心的役割を果たした。」「目的推進のため、国民大衆に嘘をついたことについては、軍部より官僚の責任の方が大きかった。」
日本の悪業と失政は、何にでも官僚に責任があると言うウォルフレン式理論の展開です。まずもって日本の官僚の範囲を、あそこまで広げれば、政府の指導者の中に官僚でない人間を探す方が難しくなります、
「広島の原爆」についてはわざわざ「広島空爆」と表現し、日本の官僚の責任を問うほどにはアメリカの無差別殺戮に力を入れて説明しません。これで日本を愛すると公言するのですから、氏の神経を疑います。
「アメリカが日本を占領し、経済官僚が台頭する以前は、」「内務省が、司法省と文部省を重要な協力者として、社会統制を推進した神経中枢だったのであり、軍部は、ごく限られた程度においてのみ、監督的機能を保持していたに過ぎない。」
氏の説明を読みますと、戦時中の政治には軍部の影響力がなく、内務省の官僚が主導権を持っていたように聞こえます。確かに戦前の内務省は「官庁の中の官庁」、「官僚組織の総本山」 と呼ばれる最有力官庁でした。
敗戦後GHQに解体されましたが、総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省を指し、今でも「旧内務省系官庁」と呼ぶ者がいます。だからと言って、内務省が軍部より、大きな力を持っていたと言うのは言い過ぎです。内務省が軍部に協力したのは間違いないとしても、主導権を持っていたのは軍部です。牽強付会をここまでやると、氏の良識に疑問符がつきます。
「戦後の官僚にはこの遺産があること、そしてその権力がコントロールできなくなる可能性が、引き続き存在することについて、判断の過ちを犯してはならない。」「1945 ( 昭和20 ) 年以前の官僚制と、1945 ( 昭和20 ) 年以後の官僚制の間には、制度的断絶がなかった事実を、十分に認識する必要がある。」
「GHQの致命的な失政は、官僚制を手付かずのまま残したことだった。」「役人たちが経験したのは、天皇の官僚から国家の公務員へとレッテルの変更である。」「官僚たちは依然として、社会に対する最大限のコントロールを維持したいと考えている。」
歴史的に見れば、官僚は明治時代の国策だった「文明開化」と「富国強兵」を、政治家と共に押し進め、欧米列強の侵略から国を守り、第二次大戦後は焦土となった国を再建し、ついには日本を、世界第二の経済大国にまで発展させた指導者たちです。バブル崩壊前には、政官財で結託し、国民不在の「金権政治」を行い、日本をダメにしにしたのも彼らです。
官僚組織に対する私の思いは、深い信頼と強い不信感、尊敬と憎しみ、賞賛と侮蔑など、相矛盾するものがせめぎあう複雑な気持ちで、ひと言では尽くせません。それだけに悪意を持つ氏の、単純化した官僚批判論に嫌悪感が生じます。日本人は何も知らないから、自分が教えてやると言う氏の姿勢には、一言言わずにおれなくなります。
「貴方に指摘されるまでもなく、日本人は考えている。」「日本ついて余計なことを言わず、貴方は自分の国で蔓延している覚醒剤の悪習の心配をしなさい。」
日本の知識人と氏が語る人物の中に、森永卓郎氏と白井聡氏がいます。
森永氏は憲法改正に反対する人物で、もしも他国が攻めてきたら戦争をせず、何もかも捨て一人で逃げると、自己中心的な意見を述べる経済評論家です。愛国心も家族への愛もない氏は、私から見れば人間の屑ですが、マスコミに重宝されテレビや新聞に登場しています。
白井氏は「永続敗戦」という新造語を考え出し、新進気鋭の政治学者ともてはやされています。6年前に朝日新聞が、氏の意見を大きく取り上げていました。白井氏の意見も、ウォルフレン氏に劣らず独りよがりの論理ですから、こう言うところで共感したのかもしれません。
今回はスペースの都合でここまでですが、次回は臼井氏の「永続敗戦」論を紹介します。ウォルフレン氏との共通点が分かります。