「隔靴掻痒」 ( かっか そうよう )、と言う言葉があります。
辞書を引きますと、「 かゆいところに手が届かないように、はがゆくもどかしいこと。」「 物事の核心や急所に触れず、もどかしいこと。」と、説明しています。
氏の著書を読んで、私が感じるのはまさにこれです。最初に戻り、目次を並べてみました。
第1章 学校教育が招いた「学級崩壊」
第2章 変わった子供と、変わった親が増えている
第3章 教育を荒廃させる文部官僚たち
第4章 子供たちの学力低下は何故おきたか
第5章 幼児虐待の悲劇が止まらない
第6章 少年犯罪大国を招いた少年法の理不尽
陰湿ないじめや、子供を虐待し死に至らしめる親、あるいは凶悪化する少年犯罪など、提起されているテーマは、現在も大きな社会問題です。子と孫を持つ身として、辛い気持ちでニュースに接しています。
氏の著書の目次を見た時、どの様な解決策が語られるのだろうと、期待しました。一気に読みましたが、「隔靴掻痒」の感のままでした。各章の結論部分にある、氏の意見を紹介します。
第1章 学校教育が招いた「学級崩壊」
・自由と権利と平等を、かぎりなく拡大解釈し、曲解し、教育現場に持ち込んだ戦後日本のいびつな民主主義が、問題の根っこにある。
・このような子供達を生んだ社会病理の根は、むしろ親たちにある。問題解決のためには、その親の世代からの立て直しが必要である。
第2章 変わった子供と、変わった親が増えている
・愛情あふれる子育てをしつつ、人間育成には、規範、規律が必要だと認識していたかっての現実主義を、徹底的に砕いたのが戦後教育である。
・人間の表層しか見ることなく、形としての教育を整えることにかまけてきた戦後教育を、徹底して正していくことから改革が始まる。それこそが、子供も大人も、満ち足りた幸せな表情をしていた、かっての社会を再現する手がかりとなるのではないか。
第3章 教育を荒廃させる文部官僚たち
・文部行政は子供そっちのけで、中央集権にこだわってきた。その結果青白くて覇気がなく、知識水ぶくれで、しかも、自分を愛することのできない子供たちが出現した。
・戦後半世紀の文部行政が、失敗だったことの証左である。ならば文部省は、もはや教育の場から退くべきだ。教育の現場から生きる力を蘇らせるには、文部省の官僚主義の排除が肝要だ。
第4章 子供たちの学力低下は何故おきたか
・日本が、情報面でも、経営面でも、科学技術面でも自立していくためには、国家としてある部分をエリート化していかなければ、全体が大きな損失を被ることになる。
・悪平等と、何でも許されるリベラリズムは、往時の欧米を席巻した。しかし彼らは、踏みとどまった。エリート層を守り、ひいては国民全体を守った。
・知的後退は、経済、外交活動の劣化を誘うだけでなく、個々人と、社会全体の誇りをも奪っていく。エリートという言葉を嫌悪する悪平等の体質から脱出し、エリートとともに、一般社会の未来を守っていくという発想が必要だ。
第5章 幼児虐待の悲劇が止まらない
・厚生省のような消極的な行政のもとで、幼児虐待が深刻化していく。戦後私たちは、核家族化や女性の自立、より多くの自由など、新しい価値観を手に入れた。
・だがその背後で、救いを求める弱い子供たちには、十分な注意を払ってこなかった。先に立つのは、親のエゴでないのか。幼児虐待の悲劇を止めるためにも、法整備を含めた、積極的な対応を、急がなくてならない。
第6章 少年犯罪大国を招いた少年法の理不尽
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツとの比較で、日本の少年法の特異性が説明されます。他国は厳罰主義を取り、未成年でも刑事罰を課しますが、日本はどこまでも未成年を守ります。正しく少年を導くためには、厳罰主義で臨むべきで、ほとんど無視されている被害者や、その家族への配慮がないと批判しています。
氏自身の言葉でなく、他の学者の意見の紹介が主となっていますので省略しました。
70ページ以上の内容を、割愛しての紹介ですから、「都合の良い部分だけを、切り取った」という批判もあると思います。訪問された方々が、氏の意見を読み、どのように感じられるのか分かりませんが、私には、「隔靴掻痒」という印象が強く残りました。
次回は、具体的に紹介いたします。