ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

極論の中間にある、常識

2013-04-29 14:01:17 | 徒然の記

 あの忌まわしいギョウザ事件以来、というより、江沢民が主席になってからというもの、日本に対する、中国政府による難癖と横車には、我慢のならないものがある。

 チャンネル桜に登場する、右サイドの人びとの話を聞いていると、歯に衣着せぬ反論が心地よくてならず、溜まっているウップンがふっ飛び清々した気分になる。

 しかし時間を置いて考えると、小気味良い中国批判には、諸手を擧げて賛同できないものがある。快刀乱麻を断つような、中国人の民族性分析だが、その論で行くと、中国には猜疑心と我欲で固まった、見下げ果てた人間ばかりが住んでいるという話になる。

 隣国の13億人が、すべて愚かしい人間だと言うのは、やはりひとつの極論である。日々マスコミが伝える、忌々しい中国を思えば、それで良いと打ち捨てたい気持ちに駆られるが、それではなるまいと、異議を唱える理性が心の片隅にある。

 紀元607年に、大和朝廷の使いとして、聖徳太子の手による国書をたずさえ、小野妹子が隋を訪れて以来、わが国は、中国から沢山のものを学んで来た過去がある。次の唐王朝からは、律令制度に始まり様々な国家の制度を教わった。二十回に及ぶと言われる、遣唐使船の行き来があり、10度目の遣唐使の船では、かの高名な鑑真和上が訪れている。

 過去に5回、船での来日に失敗し、皇帝から引き止められていたにもに拘らず、日本人の真摯な要請に応えようとした鑑真は、非合法な形で遣唐使船に乗り込み、弟子5人と共に日本に入国した。西暦753年、日本の都が平城京にあった頃で、65才の鑑真は重なる苦労のため盲目の人となった。

 中学生だったか、高校時代だったか、日本史の授業で教わったことがある。仏教のみならず、中国から伝来しものは、孔孟の思想、老荘思想、詩歌、書道、絵画、音楽等々、今も私たちの生活の中で生きている。

 中国憎しの感情に任せ、果たしてこれらをすべて、二束三文のものとして片付けて良いのか。それでは私たちもまた、隣国に劣らず、愚かな人間の集まりに過ぎないと、そんな話になるのではなかろうか。

 どちらかというと私は、左翼の人びとより右翼の人間に、親近感を抱いているが、右でも左でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。立派な言葉で飾られていても、過激なものにはやがて不自然さが生じ、こじつけやへ理屈がついてくる。

 君が代と日の丸について言えば、私は国民の一人として、敬意と愛着を持ち、他国から蔑ろにされると、心が傷つけられる。天皇に関しても同じである。ただ右翼の人びとのようには、ひれ伏さず、崇め立てようとは思っていない。

 日本人の素晴らしさや、日本人の誇りを持っていても、世界一だとか、万邦無比だとか、そういう奢りは百害あって一利なしと思っている。以前石原莞爾の自伝を読んだ時、彼が欧米人を、二言目には毛唐と呼んでいたのを知り、その傲慢さに嫌悪を覚えた。

 日本を過剰に意識し、他国民を蔑視するという、軽薄な愛国心というか、民族愛というのか、これが戦前の日本人の持っていた醜さだったかと、そんな気がしている。敗戦になると、この思い上がりが裏返しとなり、「一億総懺悔」と変じ、自虐史観という、惨めな反省になったのだと私は考えている。

 中国の社会においても、極悪非道の日本人どもと、今はそんな極論が横溢しているのだろう。だが中庸の真実を求める人間が、日中双方にいるはずである。

 独裁政権のため、命の危険にさらされるから、口をつぐんでいる人びとが、13億人の中には多数いるはずだ。全ての中国人が愚かだと断定するより、そうではないと考える方が、ずっと事実に近い気がする。

 鑑真のように立派な中国人が、沢山いるだろうと考える私は、右翼の人びとには、親中派の烙印を押されるのかもしれない。右からも左からも、相手にされない人間ということになるかもしれないが、私の考えが「常識」ではないかと思っている。

 極論を言う左右の人間より、常識を持つ国民の方が多数いて、選挙の一票で国政に参加しているから、今の日本があると考える。混乱はしているが、左翼全体主義国でもなく、右翼強権主義国でもない日本だ。

 ただ欲を言えば、自分の国を愛するとわざわざ言わなくて良い国にしたい。

コメント
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