だらだら日記goo編

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清しとみゆるもの

2005-06-10 23:04:02 | アート・文化
縄文土器の素晴らしさをといたのはいうまでもなく岡本太郎だ。
縄文の昔から人は進歩していないと考えたのだ、そのことを改めて感じた。
出光美術館は「茶陶の源流」に夜間開館を利用していってきたのだ。
お茶のことはまったく知らない、今まで避けてきた感じもあったが素晴らしい展覧会だ。
古墳時代の昔から日本陶器の源流を探り、中国の影響を受け独自の文化を完成するまでをおった展覧会だ。
すでに「枕草子」に土器は「清しとみゆるもの」とかかれているという、神にささげるものという神聖な意識があったようだ。
その伝統は近代になっても受け継がれているという、和の器の「ゆがみ」だ。
なぜゆがめてつくるのかという問題に、それは洲浜や蓬来山をイメージしたものという、つまりは神聖なるものだ、なかなか面白い。
かくして陶器は神聖なものを宿してハレの場での祝祭性を帯びたものとなる。
まことにおもしろい。
尾形乾山の作る器も中性の伝統を意識した「手づくね」による器という。
そういう角度から器を見たことないので実に新鮮だ。
そのほか中国の陶磁器やら京都の遺跡から発掘された生々しい土器などさまざま展示されていて、見るものをあきさせない。
圧巻は野々村仁清の茶壷だろう。
焼き物に絵画的な意匠を加えた作品で芥子が描かれている、狩野派の影響かともいう。
惚れ惚れ見とれて一時間半、あっという間に閉館時間だ。
残念ながら出光以外では開催されないようだが、ぜひ御覧いただきたい展覧会だ。6/26まで。



うら若き乙女のサイト

2005-06-10 00:06:55 | アート・文化
「お友達」にJuneさんのブログ「花耀亭日記」と、千露さんのブログ「猫と美術の日々」を追加した。
Juneさんはカラヴァッジョに造詣が深く、千露さんは世紀末美術に造詣が深い。
ともにうら若き乙女と推察される、ご本人はどう思っているかしらないが。
まあこちらの感覚では、20台の後半の女性に若いですねといっても、もうおばさんですとかえされる。
「女の負け組」とかナントカ話題だがやはりできる女性は光っているし若い。年齢に関係ない。
野田聖子さんだって、雑誌で見れば光り輝いている。
というわけでうら若き乙女のサイト、ぜひのぞいてもらいたい。
さてもう日付が変わったが今日は夜間開館の出光美術館へ、日曜は藝大美術館の植物画を楽しみたい。
土曜は世田谷の「生活工房」でペルシアの展示が始まるらしいので、それに行く予定。


絵画の基本

2005-06-08 23:08:32 | アート・文化
中学時代は音楽と美術がいやでたまらなかった、親に内緒でずる休みをした。
だから高校の芸術は書道を選んだ。
美術の基本は写生である、美術教室で対象に向って黙々と筆を滑らせて行く時間が苦痛でならなかった。し
それが今ではクラシック音楽や美術作品について薀蓄語るようになるのだから人生は判らない。
こんな書き出しになったのは近代美術館で小林古径の展覧会を観て来て、改めて写生の大切さを感じたからだ。
ゴッホの大混雑がウソのような近代美術館で小林古径をゆっくり鑑賞する。
全国いたるところの美術館からこの人の作品を集めた展示だ。
小林は師の下で青春時代は写生に没頭したという、そのスケッチブックも展示されており興味深い。
裸婦のスケッチもあるし、渡欧時代はダヴィンチのスケッチもある。
興味深いのは小林がダヴィンチや古代エジプトばかり熱中していたこと、つまりは古典志向なのだ。
その姿勢は終生変わらない、初期の歴史画を描いた作品でも晩年の植物を描いた作品でもこの人の造形は一貫している、間に戦争があったはずだし、西洋の流行絵画も入ってきたはずだがまったく動じないただ基本に忠実に、小林の言葉を借りるなら対象を「じっと見たときに受ける感じ」が一番重要となる。
あれ、と思う作品もないではない。
「踏絵図」はキリシタンの踏絵を描いたものだが、弾圧される者の表情が妙に明るいのはどういうことか。
「鶴と七面鳥」は近代琳派の重要作品だそうだがたらしこみは使われていないという、といえば「とうもろこし」という作品はたらしこみを使ったりしている。
それにしても小林の自然を見つめるまなざしの細やかさには驚く。
「てっせん」なる絵がある。花の名前のようだが僕ははじめて聞く。Clematisという学名らしい。
昨日も日本の自然について書いたばかりだが、今日また自然を尊ぶ画家に出会えてうれしい。
カタログも良くできている、会場の展示作品以外のものも載っているが展示換えがあるのだろう、もう一度いきたい。
常設展示も観るが、妙に外国の作品が多い、マックス・エルンストなどもある。
二階の現代美術のコーナーなど見ると、今の作家は写生ということをしているのかと思う。
何はともあれ素晴らしい展覧会だった、日本画の展覧会で1200円は高いようにも思えるがその価値はある。


美しい風景の中で

2005-06-07 22:28:12 | アート・文化
日本という国もまだまだすてたものではない。
美しい自然がたくさん残っている、日本を愛した外国人も多い。
鎖国時代にやってきたシーボルトもそうだし、浮世絵を通して日本を愛したゴッホもそうだろう。
美しい自然はかなり破壊されたが、まだまだ残っている。
たとえばここからリンクさせてもらっているやすみさんの「安見の散歩道」のブログなどを拝見しているとそう感じる。
こんな書き出しになったのはその浮世絵の展覧会「北斎と広重」展を日本橋三越で観て来たからだ。
原安三郎という人の秘蔵品の展示で「幻の肉筆画」がうたい文句だが、それより展示のほとんどを占める風景画に感動した。
北斎の「富嶽三十六景」に始まって「諸国瀧廻り」だの「諸国名橋奇覧」だの、広重の「東海道五拾三次」だの「諸国六玉河」だの「箱根七湯図会」だの、見ているほうが疲れるほどこれでもかこれでもかと展示される。
正直一枚一枚丁寧に見たいのだが、展示が多すぎて疲れる。
で、全体として北斎も広重も日本の美しい風景を記録にとどめたいと、まさに情熱的に日本各地を歩いたのだなと。
勿論浮世絵は楽しむためのもので特に初期は「二大悪所」、芝居町と遊里が好まれたというがこの展示ではほとんど反映されていない。
かえって「箱根七湯」で「底倉」とか「木賀」とかいわれてもこちらはわからないくらいだ。
「諸国六玉川」は和歌の歌枕として有名というがこちらは玉川といえば、東京都と神奈川の境にある川しか知らない。
ということで電車も何もない江戸時代の絵師が日本各地の景勝地を実に良く知っていることに驚きを禁じえなかった。
展示の最後は冒頭に書いたゴッホだ。
ゴッホの「タンギー親爺の肖像」には、背後に六枚の浮世絵が模写されているという。
ついこの間まで大混雑の展覧会が開かれたゴッホ、しかしその原点に日本の美しい自然があるとすれば、僕たちはもっと足元を見つめなおさねばなるまい。
美しい日本の自然を守りたいと切に願う。
ゴッホで大混雑した近代美術館は今日から小林古径が始まった。こちらにも足を運びたいと思う。


死者の視線

2005-06-07 00:07:58 | アート・文化
内面を見つめた画家は多い。
ルオーがそうだし、日本では前に書いた三岸節子もそうだろう。
けどこの小山田二郎という人はちょっと異色だ。
1952年の個展で評価を受け、画廊中心に活躍したのに1971年突如として失踪、社会から離れて死ぬまで暮らしたのだ。
社会とかかわりを持たないのだから自然とその眼は自分の内面に向く、しかも昔の記憶に向うだろう。
この画家が戦争を想起させるようなえを多く描いているのも必然といえる。
たとえば「火のモニュメント」だ。まるで銃口を思わせるようなとがった筆遣いでビルを描いているのも戦争体験あってのことだろう。
この画家の作品に骸骨がしばしば登場するのも驚くことではない。
戦争という理不尽な出来事で死んでいった人々のことが頭にあるからだろう。
「亡者」という作品もあるし「夜の集い」という題名はいかにも死者の語らいにふさわしい。
この画家は失踪する前半身不随になるという生死の境をさまよう体験をしたという。
言ってみればこの画家は死者の視線で作品を描いているのだ。
かといってこの画家は宗教に頼ることもしない、むしろ救いなき現実を受け入れる。
「ピエタ」とか「はりつけ」とか、宗教的な題材の作品も多い。
しかしその作品に無数のスクラッチ、引っかき傷が描かれているのだ!
それはまるで救いなき時代と己への心の傷であると思える。
この画家はついに自ら言うところの「地上の小さきもの人間」にとどまろうとした。
しかも「鳥女」に自らや人間を象徴しているようにどこへ飛んでいくかわからない存在、寄る辺なき存在として人間を描いたといえる。
不安の時代に小山田の作品が見直されるのは故なきことではない。
なおこの展覧会には日曜にいったのだが、月曜に母の介護調査がありましてアップするのが遅れました。
展覧会は7/3まで、東京ステーションギャラリーにて。
どうでもいいことですが毎日新聞主催で、この新聞社の展覧会はいつもそうなのですが、カタログ内容が貧弱に過ぎると付け加えておきます。