縄文土器の素晴らしさをといたのはいうまでもなく岡本太郎だ。
縄文の昔から人は進歩していないと考えたのだ、そのことを改めて感じた。
出光美術館は「茶陶の源流」に夜間開館を利用していってきたのだ。
お茶のことはまったく知らない、今まで避けてきた感じもあったが素晴らしい展覧会だ。
古墳時代の昔から日本陶器の源流を探り、中国の影響を受け独自の文化を完成するまでをおった展覧会だ。
すでに「枕草子」に土器は「清しとみゆるもの」とかかれているという、神にささげるものという神聖な意識があったようだ。
その伝統は近代になっても受け継がれているという、和の器の「ゆがみ」だ。
なぜゆがめてつくるのかという問題に、それは洲浜や蓬来山をイメージしたものという、つまりは神聖なるものだ、なかなか面白い。
かくして陶器は神聖なものを宿してハレの場での祝祭性を帯びたものとなる。
まことにおもしろい。
尾形乾山の作る器も中性の伝統を意識した「手づくね」による器という。
そういう角度から器を見たことないので実に新鮮だ。
そのほか中国の陶磁器やら京都の遺跡から発掘された生々しい土器などさまざま展示されていて、見るものをあきさせない。
圧巻は野々村仁清の茶壷だろう。
焼き物に絵画的な意匠を加えた作品で芥子が描かれている、狩野派の影響かともいう。
惚れ惚れ見とれて一時間半、あっという間に閉館時間だ。
残念ながら出光以外では開催されないようだが、ぜひ御覧いただきたい展覧会だ。6/26まで。
縄文の昔から人は進歩していないと考えたのだ、そのことを改めて感じた。
出光美術館は「茶陶の源流」に夜間開館を利用していってきたのだ。
お茶のことはまったく知らない、今まで避けてきた感じもあったが素晴らしい展覧会だ。
古墳時代の昔から日本陶器の源流を探り、中国の影響を受け独自の文化を完成するまでをおった展覧会だ。
すでに「枕草子」に土器は「清しとみゆるもの」とかかれているという、神にささげるものという神聖な意識があったようだ。
その伝統は近代になっても受け継がれているという、和の器の「ゆがみ」だ。
なぜゆがめてつくるのかという問題に、それは洲浜や蓬来山をイメージしたものという、つまりは神聖なるものだ、なかなか面白い。
かくして陶器は神聖なものを宿してハレの場での祝祭性を帯びたものとなる。
まことにおもしろい。
尾形乾山の作る器も中性の伝統を意識した「手づくね」による器という。
そういう角度から器を見たことないので実に新鮮だ。
そのほか中国の陶磁器やら京都の遺跡から発掘された生々しい土器などさまざま展示されていて、見るものをあきさせない。
圧巻は野々村仁清の茶壷だろう。
焼き物に絵画的な意匠を加えた作品で芥子が描かれている、狩野派の影響かともいう。
惚れ惚れ見とれて一時間半、あっという間に閉館時間だ。
残念ながら出光以外では開催されないようだが、ぜひ御覧いただきたい展覧会だ。6/26まで。