温故知新No2

静岡県の牧之原市から、盆栽、野球審判、蕎麦打ち、おやじバンド、その他徒然なるままに、ブログしています。

盆栽教室No7

2006-10-21 20:17:47 | 盆栽教室

今日は、今月2回目の盆栽教室。教材も4点となった。

たった4点、と思われる方もいるかもしれないが、初心者にとっては、大事な、マイ盆栽!

しかも、この教材は、講師が種から、苗から育てたもので、しかも数ある中からから選んできた優れもの。

P1010025_1 P1010022

左は、ピラカンサ。これでも5年ほど、経過しているもの。

右は、3年目の山もみじ

単に、種から芽を出したもの、苗を大きくしたものではなく、今後成長を見込んでの枝ぶり、形を考えながら、小さいときから鋏をいれていた将来を約束された(?)逸品である。

したがって、このまま講師の言われたように手をいれ、素直に(?)成長させれば、将来は必ず芸術作品になる教材である。

今は、どの枝を、どの葉を切れば、伸ばせばなどと考えるノウハウはなく、ただ、枯らさないようにと水遣りを忘れないようにすることで精一杯であるが、それでも、枝から小さい芽が見えると気になり、毎日眺めている状況である。

こんな小さな作品でも、講師の所見によって隣町の文化祭へ出展することとなった。

ただ、恥ずかしながらほとんど、いやすべて今のところ講師の手によってここまで育った作品(六角柳)。(右写真:文化祭出展第1号)

P1010037

私の作品として展示する値があるのかどうかは分からないが、知らない人は、やはり盆栽教室の新入生作品としてみてくれるのだろう。

そして、私たち新人も張り合いができ、また、訪れた方々の中で、素人の作品を眺めつ、興味を持っていただき、参加していただければ、と考える。

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審判小休止

2006-10-21 09:07:49 | 野球審判活動

今日は、この地区の中学野球新人戦準決、決勝がある。

この絶好のスポーツ日和、中学生のすがすがしい、はつらつとしたプレーを見ながらの審判は最高であるが、やはりこんな日は、そして、中学生の審判は、やりたい同僚が多く、ここは遠慮(?)することとした。

いつも、社会人や、中学生、学童の準決勝や決勝などの審判ばかりやり、また、先週はねんりんピックの全国の還暦チームを迎えての楽しくも白熱した試合などの派遣をいただき、おいしい試合ばかりをこの頃重ねていたように思う。

したがって、同僚審判員にも、楽しくも緊迫した中での試合を重ねていただき、技術向上に努めていただきたいと考える。

ただし、今月末の土日は、仕事。来月は、いろいろ所用(?)があり、なんだかこのまま今年度の審判活動が終わりそうで、少しあせっている。

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黄葉(???)のたより届くNo4

2006-10-20 21:27:14 | 日記・エッセイ・コラム

Yじいじからコメント http://oishi21.blog.ocn.ne.jp/oishi21/2006/10/no2_2886.html#comments

「お誘い有り難う御座います!でも22日はチョッと都合が付きません。すいません。11月の山芋会には、なんとしても出席したいと、思いますので又連絡ください!」

ご返事ありがとうございます。残念ですが、いつもながらおいしいところはしっかり・・・。いえいえ、心配りのじいじ、きっと22日は、本当は付き合いたいのでしょうが、無理なのでしょう。

日ごろのお心遣い感謝しています。

11月の山芋会にご参加いただけるだけで、結構です。

S山さん、でっかい山芋を探しましょう・・・!!!

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拓郎&かぐや姫つま恋コンサート雑感No4

2006-10-20 14:13:06 | 拓郎&かぐや姫つま恋コンサート

「一方かぐや姫は、時間を止めるNo1」

拓郎は常に進化しているゆえ、私はついてゆけなかったとブログした。拓郎は、今の姿が拓郎である。

一方のかぐや姫は、あの時の残像が今でも変わらないままであり、今でも時々ギターで彼らの曲を爪弾いている。

それは、そのグループという構成のゆえ、途中から活動を休止し、したがって、かぐや姫の姿は、あの時の姿のまま止まっているからかもしれない。

しかし考えると、かぐや姫も常に進化していたのかもしれない。ただし、メンバー個々の進み具合と、グループの存続に隔たりが出て、グループとしてのかぐや姫の活動は止めざるをえなかった。

したがって、かぐや姫は解散したときのあの当時のままの姿で、みんなの心に染み付いている。

私とかぐや姫との出会いは、おそらくラジオを聴いたあたりからではなかったかと思う。

その最初の曲は、あの大ヒット作の「神田川」ではなく、「酔いどれかぐや姫」。知っている人は知っている、知らない人はまったく知らない、かぐや姫の初期作品。

変な歌だなア、と思いながら聴いた記憶がある。

その後、かぐや姫は、南こうせつを残しメンバーが変わり、「南こうせつとかぐや姫」として再スタート。

そして、大ヒット作の「神田川」を聞くこととなる。高校2、3年のころだと思う。

その時は、ギターを弾いていたため、メロディーや歌詞がいいというよりは、バイオリンのイントロとアコースティックギターの音の組み合わせが斬新だったので、すぐに飛びついたように記憶している。

ギターコードとアルペジオは簡単なので、すぐに歌えるようになったのも、好きになった要因だと思う。

ただし、あのマイナーなイメージがさらに「赤ちょうちん」で輪をかけ、同棲という、今では特に気にならないものであるが、あの当時は、独特の言葉の響きを持ち、(まあ、これだから曲がヒットしたのかもしれないが)さすがに高校生の感覚としては、付いていけないかな、と思った。

P1010035

しかし、小遣いを貯めようやく手にしたLP「はじめまして」は、そんなイメージを吹き飛ばすような珠玉の作品ばかりで、あらためてかぐや姫を好きになった。

かぐや姫の魅力は、そのギター演奏。ギターを弾く者にとって弾きやすく、コード進行、あるいは「加茂流れに」のように、ギターのデュエットの練習にちょうどいい曲が多い。

だから、特に私は、かぐや姫をひいきにしているのかもしれない。

そして、グループ絶頂期に、かぐや姫は発展的解散をする。つまり各自ソロ活動に進むこととなる。

したがって、その時の曲、イメージ、あるいはその時代がそこでストップされ、その後色づけされないまま、今に残像が鮮明に残ることとなる。

拓郎&かぐや姫コンサートでのかぐや姫はあの頃から何にも変わっていない。時間が止まっている。

現在の目を覆いたくなる世の中の残念な変容を一瞬忘れさせてくれる。今回のコンサートは、私には、あの時の思い出を蘇らせる最高のプレゼントであり、感謝するものである。

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黄葉(???)のたより届くNo3

2006-10-20 07:16:59 | 日記・エッセイ・コラム

22日の集合時間を変更します。

午前9時にもどします。ころころ変わって申し訳ありませんが、よろしく!!!

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黄葉(???)のたより届くNo2

2006-10-19 21:46:28 | 日記・エッセイ・コラム

22日の芋探しは、午後1時に現地集合となりました。

ご都合付く方で現地を知りたい方は、温故知新No2までご連絡を。

Yじいじ、よろしかったら・・・。

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黄葉(???)のたより届く

2006-10-18 21:15:17 | 日記・エッセイ・コラム

紅葉ではなく、黄葉(?)のたより。

山芋の葉は、この時期いち早く黄色に変身。しかも他の草木はまだ緑を保っているので、特に目立つ。

この特に目立つことが、実は厄介。山芋堀が好きな、というか、とろろ汁が好きな愛好家にとっては、自然の山に育つ山芋でなければ、山芋でない、食べたくない、という方が多いと思う。

それだけ、自然と人の手によるものとは、コク、粘りの味覚がぜんぜん違う。

人の手によるものは、おそらく、2、3年で収穫。しかし自然の山芋は、山の貧弱な土で育つため、成長が遅く(それが凝縮した濃い粘りと味を作り出すのだが)、食材にできるものは、おそらく5年以上は育っていなければならないのではないかと思う。

そして肝心の、黄葉。山芋の葉は、何であんなに目立つのだろう。いかにもここにおいしい山芋がありますよと、教えているようなものである。

愛好家にとって、より大きな山芋を掘るため、人には見つからないよう、ある工夫をする。

つまり、めぼしい、立派な蔓(つる)を人よりも先に探し、しかし、なるべく掘る直前まで成長させたいため、蔓を根元から切り、山芋がここに植わっていることを人に知られないようにして、その後しばらくして、あらためて掘るのである。

もちろん、蔓を切れば、今度来るとき、どこに植わっていたか分からなくなるので、切った根元に印をつけておく、あるいは、自分だけが分かるような目印をしたりする。

よく、道なき道の山の斜面を歩いていると、突然ボコッと足が穴に埋まる。人が掘った跡で、一応、雑木林の山でも、誰かの所有であり、本来は、勝手に入ることはできないものであるが、人目もなく、勝って放題である。

P1010038

でも、いくら勝手に掘ったからといって、そのままにするのは非常識。人の山であるので、少しは、土を元に埋め戻すぐらいはしてもよさそうに思うのだが・・・。勝手に入るくらいなので、そんなことはお構いなしか!?


もちろん今回黄葉の情報いただいたのは、山の持ち主であり、我がPTAバンドのメンバーであるので、堂々と芋ほりをするのである。

昨年、バンドメンバー+Y高校PTAでこの山芋堀と芋会を開き大好評。山を提供した持ち主は女性で、労務作業はもっぱら男性陣。きっと本物の味は、忘れがたく、黄葉のたよりは、結局芋会の催促(?)。

ということで、今度の22日(日曜日)。下見に行きます。もちろん、もう掘れそうなものがあれば、掘りましょう。

午前9時ごろ現地集合とします。関係者の皆さんご準備を。詳細は、おって個々にご連絡します。

また、芋会は、皆さんのご都合を調整しながら、11月の中旬以降に計画しますので、そちらも、このブログで、順次ご連絡します。お楽しみに

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中村紘子&庄司薫&仁科明子の組み合わせ

2006-10-18 08:21:18 | 日記・エッセイ・コラム

やはり自分のブログにスムーズにアクセスできない。昨夜は、結局10回ほどログインをクリックしたのだが、「ページが表示されません」ばかり。

せっかく投稿しようとしたが、あきらめ。

どうもアクセスは、特に夜つながりにくくなる。

他のブログやHPはスムーズにアクセスできるのだが、自分のブログばかり・・・。

というわけで、昨夜書き込もうとしたものを今投稿します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今日は、久しぶりに中村紘子のLPを聞いた。

前にも書いたように、http://blog.goo.ne.jp/oishi21/d/20060930

昔のレコードの音源は、情報量も多く、いい音をびっくりするくらい今でも聞かせてくれる。

そんなわけで、いつもながら、ボリュームを大きくし、リストのピアノソロを十分聞く。

ラ・カンパネラの録音なんか、さびの部分でフル音圧。フォノカートリッジの限界を試しているかのように、ピークレベルを超えて、Laxmn M-3000のレベルの針は最大限になる。(ただし、-15デシベルゲインしてあり、つまり、逆に、針の振りを敏感にしているので、針の振りが大きくなる。M-3000の能力は、こんなものではない。フルボリュームにすると、きっとスピーカーから煙が出てくると思う。)

それにしても、中村紘子は、大学時代大変好きだった。コンサートにも何度か行った。美人のピアニストであるとともに、知る人ぞ知る(?)、庄司 薫の妻でもある。

「しょうじ かおる」といっても、今の若者には聞いたことがない作家かもしれない。

皆さん知っている方がいるだろうか。

私が中学生のとき、1971、2年頃、NHKで、「白鳥の歌は聞こえない」というドラマをやっていた。確か、午後9時30分から、ニュースの後だと思う。

記憶は定かでないが、その前に映画でやっていたのを、NHKがドラマ化したと思う。その原作者が、庄司薫である。

そのときは、原作本を見る前に、このドラマを見て、その主人公の、仁科明子(今は紆余曲折してほかの当て字になっている・・・。これはとても残念)に憧れ、欠かさず見ていた。

その後、この作者が、庄司薫と知り、それからは、片っ端から、彼の本を集めた。

過去にも書いたが、一度好きになった作家は、すべて集めなければ気がすまない。

http://blog.goo.ne.jp/oishi21/d/20060617

とはいっても、彼は、結構変わり者。大学時代、デビュー作の「喪失」で中央公論新人賞を取ったと思ったら、即休業し、その10年後、今度は再デビューをした「赤頭巾ちゃん気をつけて」でいきなり芥川賞を取った作家。その後もマイペースで、赤、黒、白、青の文字を取り入れた4部作を書き終え後は、3冊のエッセイなどを書いたが、その後目立つ活動もなく(?)、今何しているか分からない。

この破天荒な執筆活動と、でも、当時若者の心をゆする作風で、結構若者に人気があったように思う。

彼の本をかき集めた結果は、最後の、「ぼくが猫語を話せるわけ」までの8冊を買っただけで済んだ。

話は尽きない。仁科明子のことは、もう、このドラマのときからの憧れ。いつの間に人生のレールを踏み外したのか。あんな、純真無垢そのものといった感じであった彼女であったが。むしろそれゆえ、一途に走っていったのか・・・。いずれにしても人生の生き様を垣間見せてくれた彼女であった。

P1010026

彼女が、M方ヒデキの下へと走って行った話を聞いたのが、大学時代、アルバイトの帰りにいつも行く新宿ゴールデン街のスナック(いまは残念ながらない。)のママからであった。

突然のママからの話に、頭をガツンと叩かれたようで、その夜は、ママに絡んで、深酒をしたように記憶している。

また、このママがとてもいい人で・・・と、これを書き始めると長くなるのでそれはまたの機会として、とにもかくにも、仁科明子の生き方をそのときは、素直に認め、人生の複雑さを大学生ながら、知ったものであった。

中村紘子のLPを聴いただけで、こんなに言いたいことが、湧き出してくる。

整理すると(整理も何もないのだが)、

今日、中村紘子のLPを聴いた。

美人の中村紘子のピアノ、容姿が好きだった。

この中村紘子のご主人が庄司薫である。

その庄司薫の原作をドラマ化した番組が、数十年前中学の時NHKでやっていた。

庄司薫の小説が好きになり刊行本をすべて買った。

そのドラマの主人公の仁科明子にあこがれていた。

その仁科明子は人生を遠回りした。

その遠回りを新宿のスナックのままから聞いてがっかりした。

そして、今、中村紘子のレコードを聞いて、改めてLPレコードの音質に感動している。

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私自身へのブログにアクセスできない!?

2006-10-17 07:25:03 | 日記・エッセイ・コラム

どうも、私のブログへスムーズにアクセスできない。「ページが表示されません。」「サーバに接続できません。」とのコメントが出る。

P1010021_1

昨夜もせっかく原稿を作り上げ、いざブログを立ち上げようとしたら(私は、まず原稿を別に作りそれから貼り付ける。)、アクセス拒否。

したがって、ヤッキリきて、投稿を投降???

しかも、わたしはプロバイダーは、このOCNを使っている。OCN利用者がOCNブログにアクセスできないなんて・・・、と以前問い合わせたら、パソコンの細かい設定のチェックを指示された。

ある程度やってみたが、その時は、良くなる感じであり、気にも留めなくなるが、しばらくすると、症状が再発。

最近では、必ず、といっていいほど初めのクリックでは、スムーズにアクセスできない。

どなたか、解決方法を教えていただけないだろうか・・・。

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拓郎&かぐや姫つま恋コンサート雑感No3

2006-10-15 08:57:08 | 拓郎&かぐや姫つま恋コンサート

私のギター好きの原点

拓郎を知るきっかけは、母の故郷に住んでいた、10歳ほど年の離れた、いとこの存在だった、と以前ブログした。拓郎&かぐや姫つま恋コンサート雑感No

また、彼にはギターも教えてもらった。ただし、教えてというよりも彼がギターを弾くのを見ていた。

当時私は小学生。弦を押さえようにも5本指ではできず、ギターを畳の上におき、弦の一本一本を押さえながら、それを爪弾いていた。そう琴を弾く格好を想像していただければいい。

私の母のふるさとは、静岡県の中央、北部の山間の中。

小学生の頃の私は、よく夏休みになると「夏休みの友」と自由研究の素材を持ってその田舎に、丸1ヶ月以上一人で預けられた。

でも、数十メートルも離れていないところに、親戚は数件あり、毎日のように各家を回って寝泊りしていた。

ただし、同じ年頃の子供は、女の子ばかりで、昼間はあまり遊び相手がいなく、一人で小さな沢に行って魚を捕まえたり、昆虫網をもって田んぼにいってのトンボ取りなど、そう!拓郎の「夏休み」そのものをやっていて、けっこう忙しかった(!?)。

しかし、やはり、遊び相手は欲しく、もうすでに大人で地元に就職していた、一番面倒を見てくれた、いとこの帰りを待ち、大半はその家に泊まることが多かった。

その頃は、GS(グループサウンズ)全盛時代。彼もギターでGSのコピーをよく弾いて歌っていた。その彼の大事にしていたフォークギターを彼が仕事に行っているとき、こっそり持ち出して弦を指で弾いた開放弦の音が、もしかしたら私の今のおやじバンドの原点かもしれない。

彼の大事なギターではあるが、とても興味を引かれ、怖いながらも指で弦を引くその恐怖感と、一方、誰もいない部屋一杯に広がる開放弦の音の豊かさ。

今でも、自分のギターの開放弦を弾くと、そのときの情景がいつでもよみがえる。

今彼は、おそらく60歳前後。今もギターを弾いている、とは聞いていない。このごろご無沙汰している。

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ストライクゾーンにも訛(なま)り?

2006-10-14 13:30:43 | 野球審判活動

少し野球の試合としては風が強い感じだが、気温は寒くもなく、熱くもない、絶好のスポーツ日和。

行ってきました60歳以上のプレーヤーの軟式野球。

その審判をスムーズに終え、全国の元気あふれる方々と接することができ、いい思い出がまた一つ増えた感じです。

とにかく、思わず出る声援がお国なまりが混じり、全国大会という実感。

九州勢は、○○ばい!、北陸勢は大阪弁風、東北勢は、○○べ!、と郷土色豊か。

第1試合は、福井県敦賀市のチームと福岡県福岡市博多のチームとの対戦。ここに来るほどのチームのピッチャーは、やはり並みの選手ではない。

特に博多のピッチャーは180センチメートルはあるかと思える長身で、左投げ。したがって、球威と球筋の角度がすばらしく、相手チームはなかなか打てるものではなかった。

敦賀市のピッチャーも、本来の力を出せばこれもなかなかの選手だと思うが、いかんせん、見方の守りが乱れ、単純なゴロも、エラー、暴投などでアウトを取れず、結局博多の5回コールド勝ち。明日に駒を進めた。

第2試合は、本県富士宮チームと宮城仙台市チームの対戦。

残念ながら富士宮チームは、やはりエラーが多く、仙台チームが勝った。

また、仙台チームのこれも左ピッチャーであったが、コーナーを鋭く突いてくるコントロールのいいピッチャーであった。

P1010025

ちょうど私が球審だったので、帰りに仙台チームのキャッチャーにストライクゾーンの感想を聞いた。

そしたら、ちょうどそのキャッチャーが宮城県の副審判部長で、いろいろ話を聴くことができた。

宮城県では、まだ、たいていの試合は、4人制で行っているようで、今日の3人制にだいぶ興味を持っていた。

宮城では、審判の数は減っているようだが、まだ4人制を続けられているようだ。

一方、私たちの静岡県、あるいは、各連盟支部では、審判員の数が足りなく、このごろは、大抵3人制でこなしている。

宮城県の副審判部長は、3人制の動き、運動量に特に興味を持っていた。審判人口が減る中、おいおい3人制を考えているのだろうか?

ところで、今日の私のストライクゾーンを聞いてみたら、少し広めながら、固定されていてまとまっている。よかったといってくれた。はるばる静岡に来ての少しお世辞もあるのだろうが、まあ総じてよかったようだ。

ただ、少し広め、ということが気になる。今日は、私としては、上下左右、厳密に判定し、普段どおりのストライクゾーン。ということは、宮城県のストライクゾーンは、もっと狭いのか。

なかなかストライクゾーンも、各地域独特のなまり(?)があるようだ。

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ねんりんピックお手伝い

2006-10-13 21:54:19 | 野球審判活動

今月28日から31日にかけ「静岡ねんりんピック」が開催される。

http://www.pref.shizuoka.jp/nenrin/

ねんりんピックとは、60歳以上の文化、スポーツ、芸術の祭典!!!

全国から静岡県めざし、お年寄り、いやいやまだ現役バリバリの皆様が、集う。

明日は、そのプレイベント。島田市で、軟式野球が行われる。そこで、私も、審判のお手伝い。

本当は、お手伝いなら、グランシップで、おやじバンドで大会を盛り上げるつもりであったが・・・mmm。

私は、1試合目が福岡県と福井県のチームの三塁審判。2試合目は、宮城県チームと地元富士宮チームの球審。

全国の精鋭チームの激突が目の前で繰り広げられる。その経験に感謝するとともに、日ごろ静岡で鍛えた審判技術を、全国のプレーヤーに見てもらおう・・・!なんて自分ひとり息巻いている。

昔は地元で腕を鳴らした、あるいはもしかしたら甲子園も出た方もきっといるだろうけど、この静岡県で富士山を見ながらプレーしたことを、いい思い出に地元に持ち帰ってほしい。

でも、彼らも当然勝負をしにきた。審判の技術の未熟さで負けたなんていわれないよう、明日の審判に当たっている皆さんに、がんばろうと言いたい。

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またまたコメントありがとう「静岡さん」

2006-10-12 21:51:58 | オーディオ・音楽

「ぷかぷか」に興味を持つなんて、やはり似通っている。ただし、この曲は、強いて言えば大人の曲。

ブルース調の耳当たりのいい曲。ギター好きの人は、自分なりにアレンジして、あるいは、ピアノを弾ける人は、弾き語りで、片手にグラスを持ちながら・・・といった曲。

なんで、大人の曲かって言うと・・・、「俺のあん娘は、男が好きで、いつもア、ハハハハハーン(この表現が難しい(?)・・・」というくだりなどがあり、やはり、おとなの世界。

P1010002_7

でも、歌詞全体では、人生を凝縮しているようで、私もほろ酔い加減のときなどは、ギターを弾きながら、こっそりと(?)歌っています。

原作者は良く分かりませんが、オリジナルは、残念ながら1999年になくなりましたが、西岡恭蔵  http://www2c.biglobe.ne.jp/~happy/kyozo.htm

の曲で、あと、多くの人がカバーしたと思います。

アリスやかぐや姫などの健全(?)な歌ばかりが歌ではありません。人生の裏舞台を語る歌も、一聴の価値があります。

またのご感想を。

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「静岡さん」コメントありがとう!

2006-10-11 20:43:18 | 拓郎&かぐや姫つま恋コンサート

いつも「静岡さん」のプログ拝見していますよ!

「静岡さん」は、大学生ながら、審判をはじめとする趣味はもとより、政治、時事にしっかりした考えを持ち、好青年という印象です。

P1010021

また、趣味への取り組みも、世間を語る考えも、結構私に似ていて、審判活動以外にも、共感しているブログ仲間です。

私のブログを訪れる皆さんも、彼のブログにお邪魔してやってください。

http://www2.bbweb-arena.com/ump/index.html

ところで、拓郎&かぐや姫コンサートへのコメントありがとうございます。

やはり音楽は、世代を超え共通するメッセージ。いい音楽、いいミュージシャン、いい演奏は、共鳴し、世代に関係なく受け継がれ語りつかれるものと、嬉しく思いました。

静岡さん、高野連新人講習会がんばってください。

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拓郎&かぐや姫つま恋コンサート雑感No2

2006-10-10 21:50:01 | 拓郎&かぐや姫つま恋コンサート

「拓郎は進化するもの」

拓郎は、高校時代大変好きだった。その歌詞、メロディーが、斬新で新鮮に聞こえた。

しかし、それ以上に枠にはまらないその生き方、主義が、誰もが味わう自由を求めた高校時代にマッチしていたゆえ、より好きだったのだろう。

ただ、拓郎自身は、おそらく私の小学校の頃から、初期の活動をしていた。

私の小学校時代は、もちろんフォークソングなどというものは、一部の若い人たちに受け入れられ、細々と語られていた時代である。

むしろ、私などは、GS(グループサウンズ)や加山雄三などが好きで、隣のお姉さんが買っていた「平凡」「明星」などをぱらぱら見ていたり、スティック代わりに棒切れの2本をあちこちドラムスに見立て叩いていた記憶がある。

また、その頃、一応フォークというジャンルは知っていて、フォーククルセダースの「帰ってきたヨッパライ」や、高石ともやの「受験生ブルース」は、今でも歌詞が自然と出るくらい興味はあった。

しかし、吉田拓郎を知るまでには、まだ時間がかかることとなった。

拓郎を知るきっかけは、母の故郷に住んでいた、10歳ほど年の離れた、いとこの存在だった。

彼は、年が離れているにもかかわらず、私をよくかわいがってくれた。

これについては、またの機会に話すとして、彼の影響で、拓郎を知ることとなった。

それ以降、中学、高校は拓郎一筋であった。

ただ、大学以後は、次第に拓郎への執着というものが薄らいでいった。

P1010019

なぜそうなったのであろう。端的にいえば、拓郎の常に変化する音楽性、発展性に私が付いていけなかったのかもしれない。

拓郎は、フォークとはっても、そのジャンルにこだわらず、様々な人の曲を作り、自身も、ギター1本の弾き語りから、エレキギターなどを駆使しての多彩なグループ演奏など、枠にはまらない、次の音楽を求め進化していった。

一方私は、相も変わらずギター1本の頃の拓郎を追い求め、挙句には、拓郎やフォークから離れ、ソウルミュージックやジャズなどへ嗜好が変わっていった。

あんなに次に発売されるLPレコードを首を長くして待っていたのが、いつしか新たに出るCDなどには目もくれなくなっていったのだ。

私は、拓郎のこの進化を批判、拒否するものではなく、むしろそれが拓郎の拓郎たるゆえんであると考える。

この変化する音楽性、メッセージを持つ拓郎であったからこそ、ちょうど変化を渇望する中学、高校時代の私の感性にマッチし、こよなく拓郎を追い求めていたのだったと思う。

しかし、繰り返すが、拓郎の進化に私は付いていけず、次第に疎遠になっていった。

あの中学、高校時代の拓郎だけを、まるで万華鏡の底を見るように、特化して大事に楽しむのみとなっていった

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