「拓郎は進化するもの」
拓郎は、高校時代大変好きだった。その歌詞、メロディーが、斬新で新鮮に聞こえた。
しかし、それ以上に枠にはまらないその生き方、主義が、誰もが味わう自由を求めた高校時代にマッチしていたゆえ、より好きだったのだろう。
ただ、拓郎自身は、おそらく私の小学校の頃から、初期の活動をしていた。
私の小学校時代は、もちろんフォークソングなどというものは、一部の若い人たちに受け入れられ、細々と語られていた時代である。
むしろ、私などは、GS(グループサウンズ)や加山雄三などが好きで、隣のお姉さんが買っていた「平凡」「明星」などをぱらぱら見ていたり、スティック代わりに棒切れの2本をあちこちドラムスに見立て叩いていた記憶がある。
また、その頃、一応フォークというジャンルは知っていて、フォーククルセダースの「帰ってきたヨッパライ」や、高石ともやの「受験生ブルース」は、今でも歌詞が自然と出るくらい興味はあった。
しかし、吉田拓郎を知るまでには、まだ時間がかかることとなった。
拓郎を知るきっかけは、母の故郷に住んでいた、10歳ほど年の離れた、いとこの存在だった。
彼は、年が離れているにもかかわらず、私をよくかわいがってくれた。
これについては、またの機会に話すとして、彼の影響で、拓郎を知ることとなった。
それ以降、中学、高校は拓郎一筋であった。
ただ、大学以後は、次第に拓郎への執着というものが薄らいでいった。
なぜそうなったのであろう。端的にいえば、拓郎の常に変化する音楽性、発展性に私が付いていけなかったのかもしれない。
拓郎は、フォークとはっても、そのジャンルにこだわらず、様々な人の曲を作り、自身も、ギター1本の弾き語りから、エレキギターなどを駆使しての多彩なグループ演奏など、枠にはまらない、次の音楽を求め進化していった。
一方私は、相も変わらずギター1本の頃の拓郎を追い求め、挙句には、拓郎やフォークから離れ、ソウルミュージックやジャズなどへ嗜好が変わっていった。
あんなに次に発売されるLPレコードを首を長くして待っていたのが、いつしか新たに出るCDなどには目もくれなくなっていったのだ。
私は、拓郎のこの進化を批判、拒否するものではなく、むしろそれが拓郎の拓郎たるゆえんであると考える。
この変化する音楽性、メッセージを持つ拓郎であったからこそ、ちょうど変化を渇望する中学、高校時代の私の感性にマッチし、こよなく拓郎を追い求めていたのだったと思う。
しかし、繰り返すが、拓郎の進化に私は付いていけず、次第に疎遠になっていった。
あの中学、高校時代の拓郎だけを、まるで万華鏡の底を見るように、特化して大事に楽しむのみとなっていった
友達が、吉田拓郎ベストアルバムを購入したみたいです。
吉田拓郎が初期の頃からどう変かしてきたのか、私にはわかりませんが
吉田拓郎の音楽は若い人にも何か伝わる魅力があるのでしょうね。
高石ともやの受験生ブルース衛星で聞いたことありますが、どんな歌かは忘れました(汗
フォーククルセダ-ズは再結成(アルフィーの坂崎さんも一緒に演奏しただったかな)をNHK-BSだったと思いますが、少し見ましたが、よかったです。僕が良いと思う曲が多かったです。