一昨日の日本の総理の原発再稼働の説明には、聞いていて憤りと言うより、なんかさみしい、悲しい気持ちになってくるものであった。
役人の作った、ありきたりの言葉が並びたてられた作文を、さも優等生の小学生が読み上げるかのように、発表する。
そこにはよどみない朗読だが、気持ちが伝わってこない。
科学的な裏付けの数値もないまま、安全が確保されたといいきる。
福島原発の検証もろくろく進んでいないにもかかわらず。
そして、日本のエネルギーの在り方を今後どうするとの方向性を示すことなく、単に危機感をあおり、脅しの文句で再稼働の必要性を訴える。
しかも夏の期間の暫定的措置ではなく、これからも原発エネルギーが必要だと言う。
日本のトップが、こんなに拙速に、軽々しく原発推進を容認していいものなのか。
これで世界からまた日本は信用を失ったと思わざるを得ない。
日本の良識はどこに行ったんだろうか。
中性子理論を創成した湯川秀樹氏が、原子力政策に反対し原子力委員会を去った過去の頃から、科学の成果と政治の政策がかみ合わず、ひどい政治家、あるいは企業の経済理念に肝心な科学の根拠で裏付けられた正論が埋没していった。
そんな過去を、そして3.11の教訓を活かすことなく、同じ過ちをまた日本は繰り返そうとしている。
総理は、賛否両論あるところを一つにすることは、私の責任だという。
でも、そんな責任はいらない。責任ていったい何なのか。
万一の事故の場合、総理や大臣の首の一つや二つが飛んだからと言って、飛散した放射能を全て元の通り回収することはできない。
賛否両論を大岡裁きして鼻高々になるのではなく、原発を動かすこと、動かさないことの科学的根拠、世論、地域経済への影響など、ありとあらゆる裏付けを汗をかいてかき集め、国民と議論することが職務の責任ではないのか。
あるいは、この夏を原発なしで乗り切ろうと国民に訴え、万一電力の供給がストップし、国民に打撃を与えた場合、総理の責任においてその損失は補償すると言った方が現実的だ。
なんで電力各社の連携、技術の駆使、そして国民一人一人から大企業までの節電に対する英知、努力を信用しないのだろう。
また、夏限りの再稼働と言わず、今の時点でなんで将来にわたる原発の重要性をいい切れるのだろう。
私はどの政党の支持者、不支持者でもないが、どうも民主党政権になってから、議論が見えないブラックボックスの中から、ひょこっと結論が出され、トップダウンで国民の末端まで影響される結果が多いように感じる。
国民は、一部の身勝手で節制も清貧も縁のない傍若無人の連中を除き、その大半は賢明で従順な良識ある者である。
この国民がいざ夏の電力不足を何とかしようと立ち上がれば、今の供給量で間に合うのではないか。
そのこぶしを先頭切って挙げるのが、総理の職責ではないか。
理想かもしれないが、原発を盲目的に過信するのと、確固たる根拠がないことでは同じレベルの議論である。
エネルギー政策について、いったい日本はどう進むべきなのか・・・。
明快に筋道を立て論破してくれる頼もしいリーダーがいないことが、今の日本の一番の不幸なところだ。