「30年前のあのコンサートの時は、拓郎のベクトルと私のベクトルが重なっていた」
彼のベクトルと私のベクトルがしばし重なっていた時期、その最も確かだったのが、あの初期のつま恋コンサートであった。
「朝までやるよーっ」と拓郎が言って、それに応える私の声援は、純粋に熱いものがあり、彼の目指すものと、私の共感とがこれからも永遠に続けられるものと確信していた。
しかし、私はいつの間にか、その熱さをそのままの形では、持ち続けられなくなっていった。
あの35年前のつま恋コンサートのあと、私は大学生となり、東京の雑踏の中へ足を運ぶこととなる。
大学生活、東京生活は私を社会人へと、育ててくれた。
しかしそれは一方で、社会の、組織の、人間としてのノウハウを植えつけられたことでもある。
・・・・・・・・・・・ 余談
私の大学生活は、自分なりに大変充実していたと自負している。
入学当初のまだ足元がおぼつかない1年生のとき、それからアルバイトも覚え、ゼミに入り・・・。これを書き始めると取り止めのないことになるので、またの機会に、と考えるが、じつは、今、この拓郎&かぐや姫を語るにあたって、あの当時、学問よりは社会勉強と大学時代を謳歌していた中で、唯一今でも残る勉強をしたという証拠が手元にある。
それは、ゼミの卒論で、その内容も、当時の流行歌の歌詞分析をしての社会意識分析である。
大学では社会学をかじり、その中でマスコミュニケーション論ゼミを受講し、そのゼミ教授(今は、大学の教鞭の傍らラグビー部部長)やゼミの仲間とは今でも地産品や年賀状などのやり取りをしている。
したがって、あの当時のまさに拓郎、かぐや姫が活躍していた頃の流行歌を自分なりにそこに浸透している当時の社会意識というものを抽出する試みを行い、それを卒論にしたのである。
その卒論を今読み返すと、結構当時の世相、社会意識の方向性というものが上手く表現され、時代性が感じられる。
したがって、このつま恋コンサートを機会にその卒論を整理し(とにかく、大学生の柔軟な(?)頭で制作した論文であるため、難解な表現、文章が頻繁に出てきて、そのままでは、判読(?)できない)、そのうちにこのブログで連載しようと考えている。
・・・・・・・・・・・ 余談終了
また、その後地元に戻り就職へ。また、その後様々な経験を積み、家庭を築き、様々な人と出会う。
もちろん、このような経過の中で、今に至るまでのこの間でも、あの情熱は持ち続けているといえるが、その熱さ、中身は当に色あせ、拓郎の変化についていけるほどのものではなくなったのだ。とにかく、拓郎は、いつの時代でも熱い!
また、音楽のジャンルも、もともとクラッシック、ジャズなどもそこそこに聴いていたものが、いつの間にか本格的に聴くようになった。
拓郎にハマッていた最初の頃は、拓郎の出るテレビ番組や、掲載される雑誌などは見過ごさないようにと追い求め、アコースティックギターをエレキギターに見立て、好きなフレーズのリード部分とか、フィンガーピッキング、カッティングとかをコピーしようとしていた。
しかし、その後、音楽の幅が広がっていく頃からの拓郎は、私の好む話題、テーマを語るものではなくなり、また当然アコースティックギターとエレキとは別物であった。
私は、いつのまにか、彼を追いかけようと思わなくなっていってしまったのである。
私は、拓郎の批判、否定を語るものではない。もちろん今でも拓郎が好きである。
だからこそ、私と拓郎の距離を知りたい。
なぜいつに間にか距離が離れていってしまったのだろうと、様々な角度から眺めすがめつしているのである。