写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

日暈(ひがさ)出現

2020年04月22日 | 季節・自然・植物

 我が家のハナミズキは紅白2本がやっと花びらを広げ始めた。植えたのは32年前、家を建てると同時に植え、背丈はいずれも5mくらいに大きくなっている。しかし高齢のためか、数本の小枝は枯れたものもあり、ここ数年は花の数も減ってきている。

 デジカメをもって花水木の写真を撮ろうと思い外に出た。風は強く、まとまった雲はなく、春らしく明るい日差しがあった。顔を上げて太陽の位置を確認した時、久しぶりに見る珍しい光景が目に入った。日暈である。

 空の高い所に太陽が透けて見えるくらいの薄い雲が広がっている時、太陽の周りにボンヤリと見える光の輪のことを日暈という。この現象は別名「ハロ(halo)現象」ともいい、対流圏上層に発生する巻層雲や巻積雲、巻雲など氷晶からなる上層雲が現れた時、プリズムが発生し光の輪がでるという。

 時計を見ると12時半で、太陽はまさに頭の真上にあった。その昔、このブログで日暈のことを書いたことを思い出して調べてみると、2009年6月に書いている。その後もきっと何度か現れているのだろうが、この眼でしかと確認したのは11年ぶりであった。

 毎日、欠かすことなく外に出ているが、いつも下を向いて歩いているのだろう、太陽を見上げることは滅多にない。晴れている日には、必ず太陽は顔を見せてくれているに違いないが、それを拝むことはしていないことに気がつく。

 万物のエネルギーの元である太陽に対して敬意を持たなさすぎる自分に反省しながら久しぶりに見る日暈をデジカメに収めた。日暈(ひがさ)といえば、
森進一が熱唱した「おふくろさん」の唄を思い出す。

 ♪ お前もいつかは世の中の 傘になれよと教えてくれた    
    あなたのあなたの真実 忘れはしない ♪

 日暈の大きさにはかなわないが、私は我が家の小さな傘くらいの役目は果たしたのかなと、頭上の日暈を仰ぎながら思った。

参考; (氷晶とは、氷の結晶のこと。特に、六角柱、六角板、樹枝状などの形をした、小さな氷の粒子のことを指すことが多い)

 

 


誤配歓迎

2020年04月21日 | 生活・ニュース

 いつものように、いつもの時間に目を覚まし、いつものように「毎日新聞」を取りにポストに向かい、いつものように新聞を広げた。

 まずは記事を読むことはなく第1面の大見出しに目を通した後、下段に載っているコラムを読む。コラムのすぐ隣にはいつもなら18首の読者投稿の川柳が掲載されるが、今日はそれが載っていない。こんな日が時にあるので、気にすることなく最後のページから目を通し始めた。 

 「今日は山口県東部の記事が日ごろになく多く掲載されているな」と感じながら読み進めていく。関心を持って必ず読む読者投稿のエッセイのページが出てこない。おかしいなと思いながらもページをめくっていく。あるページをめくったとき「こだま」という女性専用の投稿エッセイ欄が目に留まった。「???」。一体どうしたのだろう。「こだま」といえば「中国新聞」が掲載する欄である。

 その時やっと気がついた。「毎日新聞」だと信じ込んで読んでいた新聞は実は「中国新聞」であった。読み始めた時から、少し違和感を感じていた。新聞が誤配されていたことにやっと気がついた。

 販売店に電話をすると、恐縮して直ぐに持ってきてくれるという。新聞の販売店も合理化が進み、複数の新聞社のものを一手に取り扱う合売店となっている。きっと配達人も一人が複数社の新聞を配達しているのであろう。時には誤配もあるだろう。

 そこは鷹揚ぶって待つこと10分。毎日新聞がティッシュ1箱を添えて届けられた。新聞配達という仕事、早朝から雨が降ろうと嵐が吹こうと毎日きちんきちんと届けてくれる。感謝こそすれ、咎める気なんて毛頭ない。「ありがとうございました」とお礼を言いながら毎日新聞を受け取った。

 それにしても、直ぐに気がつかなかった私の鈍感力を再認識した出来事であった。時には誤配があれば、その日は2紙が読めるという利点もあって、私はむしろ誤配を歓迎する派である。

 


ゴムひも品切れ

2020年04月20日 | 生活・ニュース

 苦肉の策で手製の布マスクを作ったところ、ことのほか奥さんから高い評価をもらった。強い要望で奥さんのものも作ることになった。ところがマスク本体は作ったが、耳に掛けるゴムひもの手持ちがなくなっている。南岩国にある手芸品店に買い求めに出かけた。

 開店直後という時間なのに、駐車場は私が停めると満杯となるほどである。外出自粛とあって、皆さん家の中で何か手芸をやっているのだろうか。店の入り口に向かうと、4人の女性が距離を置いて並んでいる。見ると入り口に立て札が立ててある。

 「コロナ対策のため、入店者の人数制限をしています。1人が出られると1人がお入りください。外でお待ちになる方は、足形が描いているところに立ってお並び下さい」と書いてある。下を見ると可愛い足形が約1・6mおきに描かれている。

 5分ばかり待っていると入店することができた。ところが肝心のゴムひもは品切れで手に入らなかった。私と同じで、マスクを手作りしたい人が殺到したのに違いない。こんなものまで品切れとなっていることに苦笑しながら帰ってきた。

 そうだ、ゴムひもがなければ布ひもを作ればいい。そういえば、子供の頃のマスクは確か布ひもだったような気がする。そんなことを思い出しながら、長さが40cmの布を三つ折りにしたひもを2本作ると、立派なマスクが完成した。

 買い物から帰
ってきた奥さんが、帰ってくるなり「できた~?」といいながら部屋に入ってくる。縫い目が少し蛇行している完成品を見せると「いい物ができたのね」と大喜びする。

 マスクが品切れとなれば自分で作る、ゴムひもが品切れとあればひもを作る。遊び道具でも何もない時代に生まれ育った習性からか、腕に自信はなくても、ないとあれば自分で作るという習性が今もしっかりと活きている。

 


晒(さらし)でマスク

2020年04月18日 | 生活・ニュース

 安倍首相は16日、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、先般発令していた「緊急事態宣言」の対象地域をやっと全国に拡大した。

 私が住んでいるのは小さな地方の町とはいいながら、コロナがいつ我が身に襲ってくるかは分からない。街にちょっとした買い物に行っても、マスク姿の人ばかり。市販の安いマスクでは、数回洗濯をすれば、ふにゃふにゃとなるが、それさえも今では手に入らない。

 それならば自分で作ってやろうと思い、奥さんにマスクに適した布を出してもらった。生地の種類を聞いてみると「晒」だという。手に取ってみると透けて見える真っ白な布である。厚みを出すためには何枚も重ねて作る必要がある。ネットで選んだ型紙を布に写し取り晒を切っていく。中央部を膨らませるためなだらかな円弧に切っていった。

 2階に上がり、母が使っていたミシンに向かって縫っていく。布を切り始めてから1時間が経ったころ、試作1号品が完成した。測ってみると縦10cm、横幅が16cmのものであるが、顔に掛けてみると安倍首相がしているマスクと同じで、少し小さいものとなった。

 奥さんに見せると、小さすぎて今一つ評価がよくない。気を取り直して、一回り大きなものを作ることにした。市販の物を参考に型紙を作り布を切り取り、再度ミシンの前に座る。2度目なので勝手知ったやり方で、直ぐに作り終えた。今度は奥さんから合格を頂き「私もお父さんと同じものを作って欲しいわ」と言わしめた。裁縫の腕前に少し鼻を膨らませる。

 為せば成る。後日、安倍さんが送ってくれるという「アベノマスク」を座して待つことはない。コロナ禍で家に閉じこもっている中、自分で出来ることは自分でやるという自給自足的な生き方をしてみた。


たけのこご飯

2020年04月17日 | 食事・食べ物・飲み物

 夕方、知り合いから茹でたタケノコを頂いた。我が家にとっては初物である。薄い飴色で見た目もおいしそうだ。「甘辛い煮物にしてみましょうか」と奥さんが言うのを遮って、「たけのこ飯を作ってみようよ。私が調理するから」と言った。

 「私のレシピは我流だから」という奥さんを差し置いて、ネットに「たけのこご飯」と入れて検索してみると、写真付きでいろいろなものが出てきたが、見た目がおいしそうなもので作ることにした。

 米2合に対して、たけのこ水煮 200g、油揚げ 1枚、みりん 大さじ2、料理酒 大さじ2、しょうゆ 大さじ2、砂糖 大さじ1/2、顆粒和風だし 小さじ1、 適量、小ねぎ 適量と書いてある。幸い、調味料は全て買い置きがあるという。

 調理するといっても、たけのこを薄切りすることと、油揚げを刻むことだけである。あとは、米を1合で作ることにしたので、全ての調味料を半量にして入れれば良いだけである。

 全ての作業を終え、炊飯器のスイッチを入れて夕方の散歩に出かけた。帰ってきたころには、プーンといい匂いがしている。「炊きあがりました」という電子音が鳴り、奥さんが茶碗に盛ってテーブルに置いた。たけのこが良い色合いで光っている。

 熱いまま口に運ぶ。あふふあふふと声を出しながら食べる。春の恵みを舌に乗せ、自分が調理した初物のたけのこご飯を、おいしく頂いた。残りのたけのこは今度は違うレシピで作って食べ比べをしてみたい。程よい歯ごたえのあるたけのこご飯、思っていたよりは簡単においしく作ることができた。

 「初物七十五日」という諺がある。初物を食べると、75日寿命が延びるという。残念ながら証明するすべはなく、ただ信じるばかりである。