「チェコ」シリーズの4回目。
プラハの景観は、建物の高さは厳しく制限されている。
屋根はレンガ色と色調が統一されている。
広告看板は見当たらない。
電柱、電線がない。
鉄塔がない。
樹木が多い。
屋上には、水タンクや空調機械がない。
チェコに関するブログはつぎです。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
2009年4月5日、
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」、2009年4月22日、
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計17になる。
「チェコ」シリーズの第4回は、つぎの14)~17)。
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
「チェコ」シリーズ4の閲覧状況はつぎです。
長いタイトルは、短い文字でも検索した。
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f2ec45e9b17b59f99f899bf46eed34c3
プラハは「百塔の都」と言われて、尖塔の建築が目立つ。プラハ城から。
尖塔の横に、とつぜんに高層マンションはない。
プラハは、尖塔が高い建物だ。
「旧市庁舎」。
尖塔の中を昇って、市街を見渡すことができる。
「ティーン教会」。
ティーン教会は、旧市街の広場を挟んで、
旧市庁舎前と向かい合っている。
「インドジシェスカー塔」。
インドジシェスカー塔は、旧市庁舎よりも高い位置にあるから、
プラハ城をはじめ、市街を見渡すことができる。
天辺は狭いが、観光客がいないから、ゆっくりできる。
「プラハ市街」。インドジシェスカー塔から。
Pはプラハ城、手前のCは旧市庁舎、Tはティーン教会。
街の景観を見るときの指標があって、
それでプラハの景観を見る。
尖塔が一番高い建物で、建物の高さは厳しく制限されている。
尖塔の横に、とつぜんに高層マンションはない。
屋根はレンガ色と色調が統一されている。
広告看板はないか、あっても小さい。
電柱、電線がない。
鉄塔がない。
樹木が多い。
屋上には、水タンクや空調機械がない。
プラハは「百塔の都」といわれて、
多くの尖塔があり、美しい街である。
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/900441be95fd751a1fcfc0b522191d01
プラハ城は、丘(フラッチャニ)の上にあるから、
モルダウ川にかかるカレル橋からも遠望できる。
中央に尖塔のある聖ヴィート大聖堂、
手前の赤い屋根の旧王宮が見えて、
プラハ城は、これらを集めたもの。
プラハ城は、「プラハ歴史地区」として、
カレル橋も含めて世界遺産になっている。
16)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日、そして、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fcf4277fc8980498f33ba971795098a6
チェコ人の「世界のだれも、助けてくれなかった!」、
を写真で示すと、プラハのヴァーツラフ広場にある「慰霊碑」である。
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、チェコ人が言うのは、つぎである。
アメリカは、
ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、
国際連合安全保障理事会で、
ソ連は拒否権を行使して、
葬(ほうむ)り去った。
そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、
手出しができなかった。
チェコには、
身内の共産主義陣営からも、
民主主義陣営からも、
援助の手は差し伸べられなかった。
世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」
日本の慰霊碑。
「日中友好不再戦の碑」、阿智村の長岳寺。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
内600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」
まさしく、
「軍国主義の犠牲者たちを記念して」の碑だ。
「軍国主義」は国民を「幸せ」にするものではない。
「軍国主義」との決別を表している。
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/34973a8a86b82bc533a826f50ba8b006
東京の「森アーツセンターギャラリー」に「ミュシャ展」がきた。
「ジスモンダ」。
絵はがきから。
女優サラ・ベルナールからの依頼を受けて制作したポスター。
上から、演目の「ジスモンダ」、
主演の「サラ・ベルナール」の文字と、
なつめやしを持つサラ・ベルナール、
そして、上演される「ルネサンス劇場」。
このポスターは、サラ・ベルナールのお気に入りになり、
以後6年、専属契約でポスターを手がけるとともに、
ミュシャの名声が確立した作品である。
チェコについて、これまでに17のブログがあった。
それらは、プラハの春、チェコ事件、ビロード革命、
シュコダ、経済戦争、三十年戦争、共産政権の崩壊、
プラハの春の音楽祭、通知表、ミュシャ、ビール、
(これは「世界がみる日本の魅力と通知表」を参考にしてください)、
景観、ランドマーク、などである。
チェコの理解に参考になれば幸いである。
また、これからチェコを訪問する人は、
見所の参考にしてください。
例えば、
民主化運動、プラハの春の痕跡である、
「慰霊碑」をヴァーツラフ広場に見に行く、
「三十年戦争」の始まりとなったプラハ城の窓を見る、
「ピルスナー・ビール」のウルケルをパブで飲む、
左にウルケルと手前は各種ハムの組み合わせ。
フィンランドの「芸者チョコレート」がプラハでも売っている、
プラハの「春の音楽祭」で、チェコ・フィルハーモニーの演奏を、
本拠地のルドルフィヌムか、市民会館のスメタナ・ホールで聴く、
ユダヤ人がいなくなった、ユダヤ人地区でシナゴークを訪れる、
ミュシャのステンドグラスをプラハ城で見る・・・、
あなたのオリジナルをつくることができる。
プラハの景観は、建物の高さは厳しく制限されている。
屋根はレンガ色と色調が統一されている。
広告看板は見当たらない。
電柱、電線がない。
鉄塔がない。
樹木が多い。
屋上には、水タンクや空調機械がない。
チェコに関するブログはつぎです。
1)「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日、
2)「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日、
3)「プラハの春の音楽祭」、2008年6月21日、
4)「チェコの世界遺産」、2008年6月26日、
5)「トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に」、
2009年4月5日、
6)「西ドイツのBMWと東ドイツのトラバント」、2008年8月16日、
7)「経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた」、2009年4月8日、
8)「プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」」、
2009年4月12日、
9)「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日、
10)「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」、2009年4月22日、
11)「三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓」、2009年4月25日、
12)「チェコの通知表」、2009年5月3日、
13)「世界の通知表をみる」、2009年11月29日、
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
合計17になる。
「チェコ」シリーズの第4回は、つぎの14)~17)。
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
16)「世界で一番悲惨な言葉」、20120年7月8日、そして、
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
「チェコ」シリーズ4の閲覧状況はつぎです。
長いタイトルは、短い文字でも検索した。
14)「プラハの景観」、2010年12月1日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f2ec45e9b17b59f99f899bf46eed34c3
プラハは「百塔の都」と言われて、尖塔の建築が目立つ。プラハ城から。
尖塔の横に、とつぜんに高層マンションはない。
プラハは、尖塔が高い建物だ。
「旧市庁舎」。
尖塔の中を昇って、市街を見渡すことができる。
「ティーン教会」。
ティーン教会は、旧市街の広場を挟んで、
旧市庁舎前と向かい合っている。
「インドジシェスカー塔」。
インドジシェスカー塔は、旧市庁舎よりも高い位置にあるから、
プラハ城をはじめ、市街を見渡すことができる。
天辺は狭いが、観光客がいないから、ゆっくりできる。
「プラハ市街」。インドジシェスカー塔から。
Pはプラハ城、手前のCは旧市庁舎、Tはティーン教会。
街の景観を見るときの指標があって、
それでプラハの景観を見る。
尖塔が一番高い建物で、建物の高さは厳しく制限されている。
尖塔の横に、とつぜんに高層マンションはない。
屋根はレンガ色と色調が統一されている。
広告看板はないか、あっても小さい。
電柱、電線がない。
鉄塔がない。
樹木が多い。
屋上には、水タンクや空調機械がない。
プラハは「百塔の都」といわれて、
多くの尖塔があり、美しい街である。
15)「プラハのランドマークはプラハ城」、2010年12月5日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/900441be95fd751a1fcfc0b522191d01
プラハ城は、丘(フラッチャニ)の上にあるから、
モルダウ川にかかるカレル橋からも遠望できる。
中央に尖塔のある聖ヴィート大聖堂、
手前の赤い屋根の旧王宮が見えて、
プラハ城は、これらを集めたもの。
プラハ城は、「プラハ歴史地区」として、
カレル橋も含めて世界遺産になっている。
16)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日、そして、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fcf4277fc8980498f33ba971795098a6
チェコ人の「世界のだれも、助けてくれなかった!」、
を写真で示すと、プラハのヴァーツラフ広場にある「慰霊碑」である。
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、チェコ人が言うのは、つぎである。
アメリカは、
ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、
国際連合安全保障理事会で、
ソ連は拒否権を行使して、
葬(ほうむ)り去った。
そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、
手出しができなかった。
チェコには、
身内の共産主義陣営からも、
民主主義陣営からも、
援助の手は差し伸べられなかった。
世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」
日本の慰霊碑。
「日中友好不再戦の碑」、阿智村の長岳寺。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
内600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」
まさしく、
「軍国主義の犠牲者たちを記念して」の碑だ。
「軍国主義」は国民を「幸せ」にするものではない。
「軍国主義」との決別を表している。
17)「ミュシャがプラハから東京へ」、2013年4月21日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/34973a8a86b82bc533a826f50ba8b006
東京の「森アーツセンターギャラリー」に「ミュシャ展」がきた。
「ジスモンダ」。
絵はがきから。
女優サラ・ベルナールからの依頼を受けて制作したポスター。
上から、演目の「ジスモンダ」、
主演の「サラ・ベルナール」の文字と、
なつめやしを持つサラ・ベルナール、
そして、上演される「ルネサンス劇場」。
このポスターは、サラ・ベルナールのお気に入りになり、
以後6年、専属契約でポスターを手がけるとともに、
ミュシャの名声が確立した作品である。
チェコについて、これまでに17のブログがあった。
それらは、プラハの春、チェコ事件、ビロード革命、
シュコダ、経済戦争、三十年戦争、共産政権の崩壊、
プラハの春の音楽祭、通知表、ミュシャ、ビール、
(これは「世界がみる日本の魅力と通知表」を参考にしてください)、
景観、ランドマーク、などである。
チェコの理解に参考になれば幸いである。
また、これからチェコを訪問する人は、
見所の参考にしてください。
例えば、
民主化運動、プラハの春の痕跡である、
「慰霊碑」をヴァーツラフ広場に見に行く、
「三十年戦争」の始まりとなったプラハ城の窓を見る、
「ピルスナー・ビール」のウルケルをパブで飲む、
左にウルケルと手前は各種ハムの組み合わせ。
フィンランドの「芸者チョコレート」がプラハでも売っている、
プラハの「春の音楽祭」で、チェコ・フィルハーモニーの演奏を、
本拠地のルドルフィヌムか、市民会館のスメタナ・ホールで聴く、
ユダヤ人がいなくなった、ユダヤ人地区でシナゴークを訪れる、
ミュシャのステンドグラスをプラハ城で見る・・・、
あなたのオリジナルをつくることができる。