莫高窟では、
――第16窟を、この目で見たい。
100年前の大発見、“敦煌文書”を、
発見した人、発見したいきさつ……を、
現地で確認してみたい。
ところが、莫高窟では、見たい石窟を、
自由に見学できるわけではない。
それに、団体旅行だから、個人行動は制限される。
莫高窟の見学は、学芸員が、
あらかじめ決められたルートを案内する。
補修中の石窟や傷んでいる石窟を避けて。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f8/c0d5ed5dbf64d24d22815175c224108c.jpg)
整備・補強された莫高窟。
第16窟は、三層ある一番下にある。
団体旅行は、数人のグループに分けられた。
――どの石窟を見せてくれるのだろうか?
わくわくして、学芸員の後について行くと、
北の端まで行った。最初に案内されたのは、
なんと、第16窟だった。
敦煌文書が見つかった石窟だ。うれしかったな!
第16窟に入った。
懐中電灯で、壁画や塑像を、照らし出しながら、
学芸員の説明を聞く。一通りの説明が終わってから、
学芸員に、敦煌文書発見のいきさつを、聞いてみた。
「道教の僧侶、王圓籙(おうえんろく)が、
敦煌文書を発見しました。1900年のことで、
20世紀最大の発見です」
と、学芸員は、誇らしげである。
「荒れていた莫高窟に、たどり着いた王圓籙は、
積もる流砂を掃除し、修復をしていました」
「王圓籙の弟子が、第16窟の壁の割れ目に、
気がつきました。王圓籙と壁を壊すと、
小部屋が現れました。第17窟です。
中には、経典や写本、古文書、絵画などの巻物や束が、
うず高く積まれて、3メートルに達していました」
「価値のある経典や古文書、絵画から、
売買契約書や食堂のメニューまで、
4万点の文物がありました」
「中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社やフリー百科事典Wikipediaによると、
王圓籙は、敦煌文書の発見を地方官に伝えたが、
地方官は、敦煌文書の価値がわからず、
しかも、運ぶ資金も莫大だったために、
そのまま保管し、監視するように指示した。
「外国人によって、
大部分の敦煌文書が、
国外に持ち去られました」
と、学芸員は残念そうである。
「1907年に、イギリス人の探検家スタインが、
1万点を、馬蹄の銀貨と交換に、持ち帰りました」
「1908年には、フランス人の探検家ペリオが、
中国語が堪能であることから、写本、文書など、
価値のある6千点を選んで、持ち帰りました」
「ロシア隊は、1万点を持ち帰りました。
日本隊も、1千点を持ち帰りました」
これは、日本人には伝えなければならないようだ。
「現在、中国には1万点しか残されていません。
アメリカ隊は、莫高窟の壁画をはがし取りました。
それに、仏像まで持ち帰りました」
オーレル・スタインによると、古文書が24箱、
美術品が5箱……1万点の敦煌文書を、
大英博物館に運び入れて、調査をはじめた。
ほかの国でも調査、研究が進み、
“敦煌学”という学問分野までに発展した。
1900年の敦煌文書の発見がきっかけで、
莫高窟の仏教美術の価値が評価されて、
莫高窟は、1987年に世界遺産になった。
――第16窟を、この目で見たい。
100年前の大発見、“敦煌文書”を、
発見した人、発見したいきさつ……を、
現地で確認してみたい。
ところが、莫高窟では、見たい石窟を、
自由に見学できるわけではない。
それに、団体旅行だから、個人行動は制限される。
莫高窟の見学は、学芸員が、
あらかじめ決められたルートを案内する。
補修中の石窟や傷んでいる石窟を避けて。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f8/c0d5ed5dbf64d24d22815175c224108c.jpg)
整備・補強された莫高窟。
第16窟は、三層ある一番下にある。
団体旅行は、数人のグループに分けられた。
――どの石窟を見せてくれるのだろうか?
わくわくして、学芸員の後について行くと、
北の端まで行った。最初に案内されたのは、
なんと、第16窟だった。
敦煌文書が見つかった石窟だ。うれしかったな!
第16窟に入った。
懐中電灯で、壁画や塑像を、照らし出しながら、
学芸員の説明を聞く。一通りの説明が終わってから、
学芸員に、敦煌文書発見のいきさつを、聞いてみた。
「道教の僧侶、王圓籙(おうえんろく)が、
敦煌文書を発見しました。1900年のことで、
20世紀最大の発見です」
と、学芸員は、誇らしげである。
「荒れていた莫高窟に、たどり着いた王圓籙は、
積もる流砂を掃除し、修復をしていました」
「王圓籙の弟子が、第16窟の壁の割れ目に、
気がつきました。王圓籙と壁を壊すと、
小部屋が現れました。第17窟です。
中には、経典や写本、古文書、絵画などの巻物や束が、
うず高く積まれて、3メートルに達していました」
「価値のある経典や古文書、絵画から、
売買契約書や食堂のメニューまで、
4万点の文物がありました」
「中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社やフリー百科事典Wikipediaによると、
王圓籙は、敦煌文書の発見を地方官に伝えたが、
地方官は、敦煌文書の価値がわからず、
しかも、運ぶ資金も莫大だったために、
そのまま保管し、監視するように指示した。
「外国人によって、
大部分の敦煌文書が、
国外に持ち去られました」
と、学芸員は残念そうである。
「1907年に、イギリス人の探検家スタインが、
1万点を、馬蹄の銀貨と交換に、持ち帰りました」
「1908年には、フランス人の探検家ペリオが、
中国語が堪能であることから、写本、文書など、
価値のある6千点を選んで、持ち帰りました」
「ロシア隊は、1万点を持ち帰りました。
日本隊も、1千点を持ち帰りました」
これは、日本人には伝えなければならないようだ。
「現在、中国には1万点しか残されていません。
アメリカ隊は、莫高窟の壁画をはがし取りました。
それに、仏像まで持ち帰りました」
オーレル・スタインによると、古文書が24箱、
美術品が5箱……1万点の敦煌文書を、
大英博物館に運び入れて、調査をはじめた。
ほかの国でも調査、研究が進み、
“敦煌学”という学問分野までに発展した。
1900年の敦煌文書の発見がきっかけで、
莫高窟の仏教美術の価値が評価されて、
莫高窟は、1987年に世界遺産になった。