季節の変化

活動の状況

敦煌文書の大部分は国外に

2009-02-11 06:23:08 | Weblog
莫高窟では、
――第16窟を、この目で見たい。
100年前の大発見、“敦煌文書”を、
発見した人、発見したいきさつ……を、
現地で確認してみたい。

ところが、莫高窟では、見たい石窟を、
自由に見学できるわけではない。
それに、団体旅行だから、個人行動は制限される。

莫高窟の見学は、学芸員が、
あらかじめ決められたルートを案内する。
補修中の石窟や傷んでいる石窟を避けて。

整備・補強された莫高窟。
第16窟は、三層ある一番下にある。

団体旅行は、数人のグループに分けられた。
――どの石窟を見せてくれるのだろうか?
わくわくして、学芸員の後について行くと、
北の端まで行った。最初に案内されたのは、
なんと、第16窟だった。
敦煌文書が見つかった石窟だ。うれしかったな!

第16窟に入った。
懐中電灯で、壁画塑像を、照らし出しながら、
学芸員の説明を聞く。一通りの説明が終わってから、
学芸員に、敦煌文書発見のいきさつを、聞いてみた。

「道教の僧侶、王圓籙(おうえんろく)が、
敦煌文書を発見しました。1900年のことで、
20世紀最大の発見です」
と、学芸員は、誇らしげである。

「荒れていた莫高窟に、たどり着いた王圓籙は、
積もる流砂を掃除し、修復をしていました」

「王圓籙の弟子が、第16窟のの割れ目に、
気がつきました。王圓籙と壁を壊すと、
小部屋が現れました。第17窟です。
中には、経典写本古文書絵画などの巻物や束が、
うず高く積まれて、3メートルに達していました」

「価値のある経典や古文書、絵画から、
売買契約書や食堂のメニューまで、
4万点の文物がありました」

中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社やフリー百科事典Wikipediaによると、
王圓籙は、敦煌文書の発見を地方官に伝えたが、
地方官は、敦煌文書の価値がわからず、
しかも、運ぶ資金も莫大だったために、
そのまま保管し、監視するように指示した。

「外国人によって、
大部分の敦煌文書が、
国外に持ち去られました
と、学芸員は残念そうである。

1907年に、イギリス人の探検家スタインが、
1万点を、馬蹄の銀貨と交換に、持ち帰りました」

1908年には、フランス人の探検家ペリオが、
中国語が堪能であることから、写本、文書など、
価値のある6千点を選んで、持ち帰りました」

ロシア隊は、1万点を持ち帰りました。
日本隊も、1千点を持ち帰りました」
これは、日本人には伝えなければならないようだ。

「現在、中国には1万点しか残されていません。
アメリカ隊は、莫高窟の壁画をはがし取りました。
それに、仏像まで持ち帰りました」

オーレル・スタインによると、古文書が24箱、
美術品が5箱……1万点の敦煌文書を、
大英博物館に運び入れて、調査をはじめた。
ほかの国でも調査、研究が進み、
敦煌学”という学問分野までに発展した。

1900年敦煌文書の発見がきっかけで、
莫高窟の仏教美術の価値が評価されて、
莫高窟は、1987年世界遺産になった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 王圓ろくによる100年前の大発... | トップ | 莫高窟の謎ときは、菩薩が教... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事