だいぶ前に岩湧山に登った時、滝畑ダムのあたりから登った記憶がある。
その辺が「奥河内」と言われることも知らなかった。
今回はボランティアさんをお願いして説明を聞きながら歩くことが出来た。
バスを降りて、坂を登ると茅葺き屋根の民家や資料館などがある「滝畑文化財の森センター」
滝畑ダムにより水没した文化財の保存展示をしている。
「滝畑ダム」は石川の治水対策や灌漑用、河内長野や富田林の上水道のために建設されたダムで、S56年完成した。
ダム建設で村の多くが水没し、160戸あった民家は100戸になったという。
それぞれ、新しい住宅地に移転、また移築・・など、それは大変だっただろう。
ここに移築展示されている梶谷家も水没の運命にあった民家。
滝畑の民家は独特の作りになっている。
川の両側に山が迫る地形なので、民家はみんな川に沿って建てられている。これを「川流れ」という。
妻側を入り口とし、台所は山側に作られている。
また、耕作地が限られるため長男以外は他の地域に出る「出畑」という風習もある。
梶谷家 妻側の入り口、屋根は茅葺き H19年に葺き替えられきれい。
右)入った所は広い土間で片方に「くど」(かまど)
反対側には「馬屋」それに続いて「若夫婦の部屋」狭いながらも個室が用意されていた。
土間は雨の日の作業場にもなったらしい。
土間に続く板の間には囲炉裏、 奥には田の字の座敷。
広場の少し高いところには「護郷の鐘」 村の合図に使われていたという。
今も出棺の時には3回打ち鳴らされるのだそうだ。
「不食供養塔(ふじきくようとう)」これもはじめて聞いた風習。
「女性が日を決めて断食する」と聞いた時は、女性差別かと思ったが、「女性だけで運営され、月に1度の安らぎの場だった」と説明を受けた。そうだったのか。
どのように行われたのかは定かではないらしいが、月1回の「不食の行」を3年3カ月続けると満願になる。そして、この碑を立てる。必ずしも1人1基ではなく、1つの碑に複数人の名があるものも。子供の名が記されたものもあるとか。
これらは7ヶ村それぞれにあった神社などに立てられていたのを、ダムで沈むため集められたらしい。
お墓ではないので花入れなどはない。
資料館に入る。
鉄の筒の中に炭を入れて湯を温めたという珍しい「鉄砲風呂」
炭焼きに使われた道具などの展示。
また、茅や茅葺きに関する展示があった。
茅葺きの技術の継承もこのセンターの目的のようだった。
文化の森センターを出て、天神社へ。
177段の階段を登る。 社には滝畑7ヶ村の神社が合祀されている。
狛犬も神社の数だけあるはずだがちょっと足りないような・・
7ヶ村の内1社は別に横に祀られていた。
道沿いの元米屋前には「配給の日」を知らせる書き込みが残っていたり・昔の暮らしが垣間見える。
居住しておられる茅葺きのお家。背景はダムの向こうの扇山(中央部)今年は少し色づきが悪いが「いつももっときれいなんですよ」と残念そうなランティアさん。
店もコンビニもなく、ここだけと言う自然休養村のレストランでコロッケ定食を食べた。
車道から苔むした石段を登り、ダム湖からは高い位置にある集落の道を歩く。
昔から滝畑の暮らしぶりは静かで謙虚、こいのぼりも立てないとのこと。
この茅葺き住宅も居住しておられる。 そばに天然記念物のクワの大木があった。
ボランティアさんは村人に出合うと、気持ちのよい挨拶を交わされ、いい関係を築かれているのがわかる。
ナンテンが多い。 イヌマキも黒く色づいて懐かしい味。
この茅葺き民家は移築して居住しておられる。こんな高いところまでどうやって運ばれたのか?
ダム湖の近くへ下りた。
夕月橋のかかっているあたりは、元、村の中心部だったところ。
ダム湖の水が少ない時期、建物の土台や道路などが見えることもあるという。
レイクハウスではママキストーブがついていた。今日は寒い。ほっと一息
ボランティアさんがこれから行く磨崖仏の紙芝居をしてくださった。
手作り小物など心からのおもてなし。
滝畑ダム アーチ型の堰堤を歩く。
右)堰堤の途中から崖に目を凝らすと、観音菩薩と地蔵菩薩の磨崖仏が見えた。
夏目さんという個人の方が6年もかかって1人で作られたそうで、よくこんな切り立った崖に彫られたものだ。
間もなくバス停に到着。一日お付き合いいただいたボランティアさんお二人とお別れした。
その辺が「奥河内」と言われることも知らなかった。
今回はボランティアさんをお願いして説明を聞きながら歩くことが出来た。
バスを降りて、坂を登ると茅葺き屋根の民家や資料館などがある「滝畑文化財の森センター」
滝畑ダムにより水没した文化財の保存展示をしている。
「滝畑ダム」は石川の治水対策や灌漑用、河内長野や富田林の上水道のために建設されたダムで、S56年完成した。
ダム建設で村の多くが水没し、160戸あった民家は100戸になったという。
それぞれ、新しい住宅地に移転、また移築・・など、それは大変だっただろう。
ここに移築展示されている梶谷家も水没の運命にあった民家。
滝畑の民家は独特の作りになっている。
川の両側に山が迫る地形なので、民家はみんな川に沿って建てられている。これを「川流れ」という。
妻側を入り口とし、台所は山側に作られている。
また、耕作地が限られるため長男以外は他の地域に出る「出畑」という風習もある。
梶谷家 妻側の入り口、屋根は茅葺き H19年に葺き替えられきれい。
右)入った所は広い土間で片方に「くど」(かまど)
反対側には「馬屋」それに続いて「若夫婦の部屋」狭いながらも個室が用意されていた。
土間は雨の日の作業場にもなったらしい。
土間に続く板の間には囲炉裏、 奥には田の字の座敷。
広場の少し高いところには「護郷の鐘」 村の合図に使われていたという。
今も出棺の時には3回打ち鳴らされるのだそうだ。
「不食供養塔(ふじきくようとう)」これもはじめて聞いた風習。
「女性が日を決めて断食する」と聞いた時は、女性差別かと思ったが、「女性だけで運営され、月に1度の安らぎの場だった」と説明を受けた。そうだったのか。
どのように行われたのかは定かではないらしいが、月1回の「不食の行」を3年3カ月続けると満願になる。そして、この碑を立てる。必ずしも1人1基ではなく、1つの碑に複数人の名があるものも。子供の名が記されたものもあるとか。
これらは7ヶ村それぞれにあった神社などに立てられていたのを、ダムで沈むため集められたらしい。
お墓ではないので花入れなどはない。
資料館に入る。
鉄の筒の中に炭を入れて湯を温めたという珍しい「鉄砲風呂」
炭焼きに使われた道具などの展示。
また、茅や茅葺きに関する展示があった。
茅葺きの技術の継承もこのセンターの目的のようだった。
文化の森センターを出て、天神社へ。
177段の階段を登る。 社には滝畑7ヶ村の神社が合祀されている。
狛犬も神社の数だけあるはずだがちょっと足りないような・・
7ヶ村の内1社は別に横に祀られていた。
道沿いの元米屋前には「配給の日」を知らせる書き込みが残っていたり・昔の暮らしが垣間見える。
居住しておられる茅葺きのお家。背景はダムの向こうの扇山(中央部)今年は少し色づきが悪いが「いつももっときれいなんですよ」と残念そうなランティアさん。
店もコンビニもなく、ここだけと言う自然休養村のレストランでコロッケ定食を食べた。
車道から苔むした石段を登り、ダム湖からは高い位置にある集落の道を歩く。
昔から滝畑の暮らしぶりは静かで謙虚、こいのぼりも立てないとのこと。
この茅葺き住宅も居住しておられる。 そばに天然記念物のクワの大木があった。
ボランティアさんは村人に出合うと、気持ちのよい挨拶を交わされ、いい関係を築かれているのがわかる。
ナンテンが多い。 イヌマキも黒く色づいて懐かしい味。
この茅葺き民家は移築して居住しておられる。こんな高いところまでどうやって運ばれたのか?
ダム湖の近くへ下りた。
夕月橋のかかっているあたりは、元、村の中心部だったところ。
ダム湖の水が少ない時期、建物の土台や道路などが見えることもあるという。
レイクハウスではママキストーブがついていた。今日は寒い。ほっと一息
ボランティアさんがこれから行く磨崖仏の紙芝居をしてくださった。
手作り小物など心からのおもてなし。
滝畑ダム アーチ型の堰堤を歩く。
右)堰堤の途中から崖に目を凝らすと、観音菩薩と地蔵菩薩の磨崖仏が見えた。
夏目さんという個人の方が6年もかかって1人で作られたそうで、よくこんな切り立った崖に彫られたものだ。
間もなくバス停に到着。一日お付き合いいただいたボランティアさんお二人とお別れした。