久しぶりの歴史サークル参加。
巻向駅から纏向遺跡建物跡付近を望む
邪馬台国の畿内説の候補地として有名な
纏向遺跡
建物跡を望む巻向駅での説明が後ろの方で聞き取れなかったのが残念だったが、資料が充実していてうれしい。
資料によると、
『出土土器が東海から関東まで広範囲から持ち込まれたものが多い(15%)こと・発生期の古墳がこのあたりに集中していること・農耕具のクワの出土は5%(他地域50~80%)に対し土木工事用のスキが多く95%出土(他地域5~50%)・多量に出土したベニバナは当時日本になく渡来人との関わりが考えられること。他、一般的な集落とは異なる点が多いことから日本最初の都市又は初期ヤマト政権最初の都宮と考えられる』とのこと。
遺跡や建物群のイメージ図があり想像しやすい。
箸墓古墳
纏向遺跡の箸中にある大型の前方後円墳。倭国の女王「卑弥呼」の墓説もある。まだ決め手はないらしいが最近の研究では卑弥呼の没年に近い3世紀中ごろ~後半の構築と考えられるという。畿内説に1歩近づいたかな?
今は倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされている。
ホケノ山古墳 纏向遺跡の古墳の1つ
箸墓を除くホケノ山古墳・茅原大墓古墳など近隣の5基は纏向型前方後円墳と言われる帆立貝式の古墳。古墳出現前後期に見られる古い形。
ホケノ山古墳から堂ノ後(どうのうしろ)古墳 その向こうは箸墓古墳
右)ホケノ山古墳の前は
山の辺の古道(現在の山の辺の道とは違う)だという。
少し進むと段々畑になっている
茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)
富士社・厳島社は三輪神社の摂社 右)弁天社古墳の石室を覆うケヤキの古木
富士社は山の守護神。富士登山の時無事登山を願ってここの小石を持っていく習わしがあったとか。厳島社は弁天社とも言われる海の神を祀る。 第7代孝霊天皇の皇女後に大物主の妻となったと言われる倭迹迹日百襲媛命を祀る
神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)
大美和の森で昼食頃には天気予報が当たって雪は本格的に降り出した。
大神神社を過ぎ 第10代崇神天皇を祀る
磯城瑞籬(しきみずがき)宮跡伝承地。この辺りが日本最初の首都だったかもとのこと。
金屋の石仏を過ぎて
海柘榴市観音
海柘榴市は山の辺の道・初瀬街道・磐余の道・山田道などすべての道が集まるところ。市が立ち、歌垣も行われた。泊瀬川一帯は最古の交易の場であり大和朝廷の中心地であったらしい。
難波津から大和川を遡行する船運も盛んでその終着地だったという。
国内外の使節が発着する場所で、百済の聖明王の使者が仏像や経典を持って上陸したのもこの辺りだと言われ
仏教伝来地の碑が立っていた。
仏像と経典は欽明天皇の
宮磯城嶋金刺宮にもたらされた。
静かな今の風景からは昔の賑わいは想像がつかない。
コースの最後
茶臼山古墳に着くころにはあたり一面雪景色。
傘に着いて重くなる雪を時々落としながら歩く。
何人かが茶臼山古墳の後円部へ登った。枯葉と雪で登りづらかった。
右)後円部の頂上
後円部には竪穴式の石室を作り木棺を収め埋め立ててあるという。
水銀朱やベンガラを使った天井石や覆い土。ガラス玉や鉄・青銅性の武具・銅鏡の破片など副葬品も多く出土したらしい。
その中の「是」の文字のある破片は卑弥呼が中国の皇帝から賜り、配布された鏡の1枚と考えられるとのこと。被葬者は不明だが大王クラスの墓であったことは間違いないとのこと。
登ってきたけど降りるのは怖い。なんとか尻もちをつかずに降りた。
鏡が割られていることについて「鏡の価値が認められるのは近世以後」とのことで、それまでは盗掘者は地金として再利用するために鏡を割ったらしい。そのころは貴種崇拝といって高貴な血筋の人を崇拝することが多かったとか(高貴な人の人骨などに価値) 「貴種崇拝」という言葉も初めて聞いた。
三輪山の麓、初瀬川と巻向川にはさまれた地域は「瑞垣郷」といわれる神聖地で古墳は作られない。(箸墓以外に古墳はない) これも初めて知った。
何回も来ている場所だけど、初めて聞くこともあって参加してよかった。
その後、雪の中を桜井駅まで歩いた。
電車の中から まるで雪国みたいな雪景色 うちの前の道も雪が積もっていた