街には、ホームレスの人もいます。
スターバックスコーヒーで休みます。緑色のエコバッグにカメラやガイドブックなどを入れておきます。
また街を散策します。
手前の、パステルグリーンの服を着ている女性は、そう悪くありません。
ここにもホームレスはいます。
いろいろな建物を見学します。
やはりクラシックな建物はいいですね。
散策するにはいいところです。
やはりこのような建物は、保存しづけてほしいものです。
さらに散策を続けます。
(つづく)
街には、ホームレスの人もいます。
スターバックスコーヒーで休みます。緑色のエコバッグにカメラやガイドブックなどを入れておきます。
また街を散策します。
手前の、パステルグリーンの服を着ている女性は、そう悪くありません。
ここにもホームレスはいます。
いろいろな建物を見学します。
やはりクラシックな建物はいいですね。
散策するにはいいところです。
やはりこのような建物は、保存しづけてほしいものです。
さらに散策を続けます。
(つづく)
周恩来が亡くなったのは1976年です。
最晩年の写真ですかね。
周が亡くなったのは、このメモ帳の日、1976年1月8日です。
中国語は全くわからないのですが、周は1898年生まれですから、2008年に胡錦濤の発した談話ですかね。
こちらは鄧小平の談話ですかね。
周恩来の奥さんである鄧穎超のコーナーです。
この2人には子どもはいませんでした。後に首相になった李鵬や文革時代に死んだ孫維世は、養子です。
面白いところでした。中国近現代史や中国共産党とかに興味のある方は行って悪くないところです。
街の真ん中へ行きます。
地下鉄は、セキュリティのチェックが厳しい状況です。
街を散策します。
建築ラッシュです。
クラシックな建物です。
さらに街を歩きます。
(つづく)
お詫び:今日は、0時の更新ができませんでした。申し訳ございません。
先々日、京都文化博物館へ電話をかけました。内容は大要ということで。
私「今年は、『祇園祭』の上映はあるのでしょうか?」
京都文化博物館「まだ日程は決まっておりませんが、上映はする予定です。おそらく16日、17日ごろかと思います」
中村錦之助(萬屋錦之介)主演の『祇園祭』は、Wikipediaから引用すれば
>作品の上映権は現在京都市が所持しており、その他権利関係が複雑に絡んでいるためソフト化の機会は得られておらず、祇園祭のシーズンに京都文化博物館・映像ギャラリーで行われる上映会が唯一の一般公開である
というわけです。この記事を書いている6月16日現在の京都文化博物館のHPには予定はありませんが、たぶん3日ほど上映があるかもと思います。私もこの映画を、2019年に観ています。
この映画を観に行くことにかこつけて京都へ行ってみようと思います。2019年の際は、深夜バスで京都へ行き、その日のうちにLCCで帰京するというなかなかハードなものでしたが、今年は行くのなら行きは新幹線かな。
ほかで全く観る機会がないというわけではありませんが、Wikipediaによれば
>著作権は京都府が保有し、原則的に1回50,000円の上映料金で貸与している
ではありますが、不定期上映ということになりますので、定期的に観ることのできる機会はやはり貴重であることはいうまでもありません。というわけで移動にいろいろ問題がある昨今ですが、興味のある方はぜひどうぞ。私も行くつもりです。
7月13日追記:今年も例年通り3日間の上映があります。
>7月16日(金)13:30~・17:00~、17日(土)13:30~・17:00~、24日(土)13:30~・17:00~
『祇園祭』
1968年日本映画復興協会(カラー・167分)/監督:山内鉄也/出演:中村錦之助、岩下志麻、田村高廣
ご興味のある方はぜひどうぞ。
先日書いた記事
のつづきです。
前の記事執筆時点では未入手だった「昭和史の論点 (文春新書) 」が手に入ったので(新書本ですので買えばいいのですが、その気になりませんでした)、さっそく該当部分を参照しました。坂本多加雄、秦郁彦、半藤一利、保阪正康の4名による座談形式の本です。(p.126~p.127)
>半藤 (前略)陸軍は明治以来、ドイツ陸軍に学んできましたから、親近感を持つのもわかるんですが、イギリスに学んだ海軍が、なぜドイツに傾斜したのか。そのことが疑問で、旧海軍軍人に会うたびに訊いたんですが、みんな口を濁して答えないんです。
ところがあるとき、海軍中佐だった千早正隆氏があっさり真相を語ってくれたんですね。つまり、ドイツに行った海軍士官はみんな女をあてがわれて、それで骨抜きにされたんですよ。
保阪 ドイツではメイドの名目で若い女性を日本の武官と一緒に住まわせたといいます。これが実質的な現地妻だった。
半藤 アメリカへ行った武官は、そんなことはまるでなかったのに、ドイツへ行った武官はみんなすごくいい思いをして帰ってきた。それで、ドイツはいい国だと。実に下世話な話で、まことにつまらない話ですが、真相はそのあたりにあるようです。
いや、どうしてそんな程度の話で
>真相はそのあたりにあるようです。
なんて話になっちゃうんですかね(苦笑)。だいたい
>ドイツに行った海軍士官はみんな女をあてがわれて、それで骨抜きにされたんですよ。
>アメリカへ行った武官は、そんなことはまるでなかった
なんて、もしそんなに効果があるのなら、米国だろうが英国だろうが当然徹底利用したろうし、日本側だってそれはそれなりに警戒もするし、そもそも
>ドイツへ行った武官はみんなすごくいい思いをして帰ってきた。それで、ドイツはいい国だと。
ということと、軍事的にドイツと同盟関係を結ぶ大きなポイントになったなんてこととは、話の次元が違うでしょう(笑)。
ていうか、素人さんの放言じゃあるまいし、この本の著者である坂本多加雄(故人)とか秦郁彦あたりはずばり大学教授だし、保阪正康、半藤といった人たちは、学者ではなくても近現代史に造詣の深い人たちです。失礼ですが、この人たちこんな愚劣なことをほざいていて、恥ずかしくないんですかね(笑)。
常識的に考えて、日本のドイツ駐在海軍武官がみなドイツ側のハニートラップにやられたなんてことはないでしょうに。前記事でも書きましたように、女遊び大っ嫌いという人もいるでしょうし、嫌いじゃないがメイドとはNGという武官もいたでしょう。あるいは遊びはしたが、完全に割り切っていた人もいたはず。当時の海軍武官がみな
>骨抜きにされた
なんてことがあるわけがない。たとえば横井忠雄はどうか。
>横井はドイツ駐在経験がある親独派として知られ、軍令部甲部員在職中は日独伊三国軍事同盟賛成の急先鋒であった。しかし2度目の在勤では反ナチスとなり、その意識を隠そうともしなかったため、やがてドイツ側から好ましからぬ人物(ペルソナ・ノン・グラータ)としてドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップから大島 浩日本大使を通じ、暗に横井の交代を求めるメッセージが届けられ、横井は駐在武官を交代させられ伊号第八潜水艦に便乗して帰国した。
つまり横井は、少なくとも2度目の在勤時には、ハニートラップはきかなかったわけです。半藤氏はこれをどう解釈するのか。そのときは、軍事同盟が成立していたから関係ないとでもいうのか。また小島秀雄は、
>晩年には日独協会の副会長職を務め、同会会長だった三井高陽とともに、日独友好に尽力した。その功績を評価した西ドイツ政府から功一級連邦功労大十字章を授与されており、また1979年(昭和54年)に行われた海上自衛隊のヨーロッパ遠洋航海に際しては、ドイツ政府からドイツへの招待を受けた。
とのことで、言っちゃ悪いですが、ハニートラップにやられてのドイツびいきなんて軽いものではないでしょう。なぜ、当時の日本海軍の認識として、ドイツと緊密な関係を結ぶということが日本の国益につながると海軍軍人の主流は考えていたという常識的な解釈ができないのか。変な話です。
それではドイツ大使だった大島浩の晩年の発言をご紹介。まさか彼は、陸軍出身でドイツびいきだから関係ないなんてことは言わないでしょうね。
>大島浩 元駐ドイツ大使
“あれは私が言い出したんですからね、三国同盟。おそらく日本政府は(同盟を)やるということには応じるだろうから、至急松岡洋右外相に会ってくれと、おれが電話するからと。”
(中略)
“いちばん初めにスターマー(特使)が訪ねてきたのは、私の家なんです。成案を持ってきたわけではないんです。そのときに(松岡外相が)私に一案書いてくれって言いましたよ、骨子をね。参考に骨子をひとつ書いてくれって、それで出しました。”
ナチスドイツに傾倒した末に…
当時、三国同盟に対しては大国アメリカを敵に回すことになるとして、海軍を中心に国内に反対意見もありました。しかし、強力に同盟締結を進めた大島。証言からはナチスドイツの力を過信していたこともうかがえます。
大島浩 元駐ドイツ大使
“私は2回、ドイツ軍を視察しているんですよ。実に立派な航空隊を作ったものだと、爆撃の装置もよし、射撃の装置もよし。これはもう(日本)軍のパートナーとして不足はないと。”
さらに、ヒトラーに心酔していたことも打ち明けていました。
大島浩 元駐ドイツ大使
“ヒトラーの頭がいいこと、天才であることは疑いのないことでしょうからね。私が酒好きだって知ってるもんですから、私にだけキルシュといういちばん強い酒を出すんですよ。私だけ特別だって。”
昭和史研究の第一人者で、作家の保阪正康さんです。国を左右するほどの重要な政策を1人の男が動かしていた、その実態を物語る貴重な証言だといいます。
ノンフィクション作家 保阪正康さん
「当時はドイツとつながるのが国策だから、(大島は)特別な存在だったんだなという感じがする。大島さんはちょっとドイツびいきが過きたなと。50:50があまりないんですね。大島さんは100%ほれてしまったんです。」
大島が尽力した三国同盟をきっかけに、日本は無謀な戦争へと突き進んでいきました。
大島の言葉が投げかける現代への教訓
東京裁判で終身刑の判決を受けたあと、1955年に釈放された大島。その後、ほとんど公の場に姿を現すことなく、晩年を過ごしたといいます。大島は自らの過ちを率直に認める言葉も口にしていました。
大島浩 元駐ドイツ大使
“私はもちろん自分の責任を痛感する、非常にそういうことを感じますね。いま考えるとドイツが勝つだろうという前提に立ってやったわけなんですよ。私が陸軍武官のときは、軍が強いか弱いかを見てればいいんだけど、大使になれば総力ですね、経済力とか産業とか、そういうことに関する判断もしないとならん。経済力・生産力なんて判断はまったくやってないんですよ、私はね。軍力だけでこれは勝つだろうと。”
保阪さんは、大島だけでなく当時多くの指導者が不都合な事実から目を背け、十分に議論を重ねようとしなかったことを忘れてはならないと指摘します。
ノンフィクション作家 保阪正康さん
「やっぱり状況は動くわけですから、国家ビジョンを持って見る目をもたないと、国の進む方向なんて危なくて為政者に任せられない。その責めを大島さんだけに負わせるのはかわいそうですね。しかし大島さんを見ることによって、そういう問題点が浮き彫りになってくるということは知らないといけないと思います。」
実は三国同盟は、ドイツの特使が来日してから調印されるまで、わずか20日間で結ばれたものでした。大島が語った交渉の舞台裏は、国の命運を左右する重大な決定を少数の指導者が、長期的な視野を持たず、勢いに任せて行うことを可能にした、戦前の日本の意思決定機構の欠陥を浮き彫りにしています。
当時は、政治指導者だけでなく、世論も三国同盟を歓迎していました。ドイツの快進撃を見て、世論は「バスに乗り遅れるな」とドイツとの提携を熱狂的に後押ししていたのです。同盟に反対する声は、大島のような推進派の運動と世論によって、かき消されてしまいました。現代でも、このようなことが起きないとは言い切れません。大勢に流されず、冷静に物事を判断する眼を持つことの大切さを感じました。
保阪さーん、あんた前半藤さんの珍論に付き合っていたじゃないですか。そのあたりの整合性はどうなんだよという気はします。ではもうひとつ。朝日新聞の記事より。
>(前略)
興味深いのは独ソ戦だ。39年に不可侵条約を結びながら、41年にドイツはソ連に攻め込んだ。
「ヒトラーはソ連の軍事力を低く見ていた。39年にフィンランドに攻め込んだソ連軍がさんざんな目に遭ったのを見て、その戦力はたいしたもんじゃないと見くびった」
「開戦から間もなく前線を視察した。捕獲したソ連の大砲を試すと、命中精度が高い。兵もよく訓練されていた。私もソ連軍は弱いと考えていたから驚いた」
独ソ戦を「ドイツが必ず負ける戦争だったのか」と振り返っている。純軍事的に戦力を集中しモスクワを攻めれば結果は違っていただろうとの見方だ。そうしなかったのはヒトラーの判断で、コーカサスの石油を手に入れる政治的思惑があったからと説明している。
なぜソ連を攻めたのか。「ドイツの宿敵はロシア。ヒトラーは一貫していた。しかしドイツを強くするにはベルサイユ条約を壊すことが必要で、それでまず英国が敵になった」
大島の父はドイツ陸軍の制度を日本に導入したことで知られ、陸軍大臣までつとめた。その父のもと、大島は小さい時からドイツ語を学んだ。録音にはしばしばドイツ語が登場する。34年に駐在武官としてベルリンに赴任し、38年に大使に昇進。39年に辞任するが40年に三国同盟が誕生すると再び大使に任命され、45年までその職にあった。
「ユダヤ人虐殺は知っていたか」と尋ねられると、「うわさはあった。あんな大規模とは知らなかった。ヒトラーは何しろ性格が変わっていた。俗人では分からない」。ヒトラーへの言及は多く、「勘がいい。本を読む。人の意見を聞きたがる。研究心が盛んだった」などと述べている。
大使としての仕事も述懐している。日本軍がソ連軍と戦った39年のノモンハン事件では、東京から「ドイツに仲介を依頼しろ」との指令を受けた。「日本が勝っているという話ばかり聞いていたので、仲介なんておかしいじゃないと思ったが、独外相に頼んだ。それをソ連のスターリンに伝えると、〈勝っているのはこっちだ。こちらから戦争はやめない〉と言われ、恥をかいたと独外相にこぼされた」と述べている。
40年に日独伊三国同盟ができると、41年に外相の松岡洋右が欧州を訪問し、日ソ中立条約を結ぶ。ドイツはソ連攻撃の準備を進めていた。「ドイツに不利になるので、ソ連との条約を結ぶな」と大島も独外相も説得したが、松岡は聞かなかった。「松岡は独ソ開戦の機運を信じていなかった」と大島は振り返っている。
*
「自分の責任は痛感するが」としたうえで、大島は37年の盧溝橋事件を「最大の失策」と指摘している。「中国との戦争を始めた。どうしてあんなことをやったのか。ヒトラーは何かをする公算が大きかった。日本にとって最も大切なのは事を構えないことだった。日本は眼光が欧州に届いていなかった」と振り返る。日中戦争がなければ、独ソ戦が始まった時に異なる選択肢があったとの思いをにじませている。中国への敬意を失ったことが戦争の原因だったとも述べている。
録音されたのはベトナム戦争の時期。「米国は大国で鎧袖一触(がいしゅういっしょく)だと思った。ベトナムを簡単に倒せると思った。日本と同じことをした」とも語っている。
(後略)
これは大島だけの話ではもちろんなく、つまりは日本全体がドイツの力を過信していたということです。それは海軍の関係者もかわらないでしょう。うんなもん、ドイツは女を世話してくれた、だからドイツびいきになるとか、そんな低次元、はっきり言ってゲスな話ではない。でですよ、半藤さんは、仮にあなたがそのときドイツでの海軍駐在武官であったとしたら、ドイツ側から女を世話してもらったら、国益よりもドイツに対する恩を優先させるの、ってきいたら激怒するんじゃないんですかね。でも彼に、そういわれて激怒する資格ががあるのかあと思いますね。ないでしょ、そんなもの。こんな当てにならんデマほざいていてはどうしようもないでしょうに。
さて前の記事でも指摘しましたが、上で半藤氏がいう
>あるとき、海軍中佐だった千早正隆氏があっさり真相を語ってくれた
というのは、半藤氏の書いているところから推測すると、たぶん1970年代半ばくらいなのでしょうか。千早正隆氏は2005年まで生きたということで(94歳で死去)、文春新書が出たときはまだご存命だったのですが、ある程度「時効」みたいなところもあったんですかね、実名を出したということは。しかしほんとに「ハニートラップ」なんてことを論じるのなら、それは関係者がご存命のうちに綿密に取材して本でも著すべきでしょうに。そういうことを彼がしなかったのは、やっぱり半藤氏もこの話がいかがわしいと考えていたのではないですかね。それでたぶんですが、自他共に認める山本五十六びいき(なおこの2人は、同じ県立長岡中学校(旧制)の出身)である半藤氏は、「当時の海軍軍人が山本さんみたいに米国びいきだったら、あんなことにはならなかったんだ」という気持ちがあるんでしょうね。いや故人だから「あった」か。それで「ハニートラップ」がどうしたこうしたとかいう話をして、関係者を罵倒しているのでしょう。そういうことにしたいという気持ちを理解しないわけでもないですが、でもちょっとなあですよね。現実性や妥当性ともにあまり感心できた話ではない。正直馬鹿も休み休み言え、デマもいいかげんににしろというレベルでしょ、これ。これでは「なんだ、半藤氏ってトンデモじゃん」といわれたって仕方ないと思います。
なおこの記事は、bogus-simotukareさんの記事に全面的依拠していることをいることを断りしておきます。
先日の記事を。
>三春町ひき逃げ殺人事件 被告「社会で生活する自信なかった」
06月08日 18時37分
去年5月、三春町の国道で、男女2人をわざとトラックではねて殺害した罪に問われている51歳の男の裁判員裁判で、被告の男は、再び刑務所に入るため事件を起こそうとした動機について、「社会で生活していく自信がなかったから」と述べました。
住所不定・無職の盛藤吉高被告(51)は、去年5月31日、三春町の国道で盗んだトラックを無免許で運転し、ボランティアで清掃活動をしていた男女2人をわざとはねて殺害したとして、殺人やひき逃げなどの罪に問われています。
2日目の8日は被告人質問が行われ、検察官が「きのうの初公判で積極的に殺害するつもりはなかったと述べたが、捜査段階で録音録画が行われている中、『殺すつもりで加速させた。確実に死ぬと思った』と供述したことは覚えているか」と尋ねると、盛藤被告は「言ったかもしれませんが、殺害したかったから加速させたわけではありません」などと述べました。
さらに、検察官が「刑務所に戻りたかったのはなぜか」と尋ねると、「社会で生活していく自信がなかった。刑務所では衣食住が保証されているから」と述べました。
また、弁護士が「今でも刑務所に長くいたいと思っているか」と尋ねると、盛藤被告は「今はなるべく早く刑務所を出たいと思っています」と答えましたが、その後検察官から、「2人を殺害した罪に対し、短い刑でいいと思っているのか」と問われると、「だめだと思います」と述べました。
9日は、裁判官と裁判員からの被告人質問が行われます。
それでその続き。
>トラック運転の男に死刑求刑 2人死亡のひき逃げ―福島地裁支部
2021年06月11日13時15分
福島県三春町で清掃ボランティア活動中だった男女2人がトラックではねられ死亡したひき逃げ事件で、殺人などの罪に問われた住所不定、無職盛藤吉高被告(51)の裁判員裁判の論告求刑公判が11日、福島地裁郡山支部(小野寺健太裁判長)であり、検察側は死刑を求刑した。判決は24日に言い渡される。
積極的殺意を否定 2人殺害ひき逃げで初公判―福島地裁支部
論告で検察側は、殺害までの意思決定や経緯は極めて悪質であり「殺害意欲に基づく犯行であることは明らか」と指摘。「2人の命を奪った重大性や自らの責任の重さを理解しているとは思えない。罪責は誠に重大で、死刑はやむを得ない」と非難した。
弁護側は最終弁論で、殺人罪の成立は争わないとする一方、確実に殺そうという気持ちはなかったとして無期懲役が妥当と訴えた。
盛藤被告は最終意見陳述で「取り返しのつかない許されないことをしてしまった。本当に申し訳ない」と述べた。
起訴状などによると、盛藤被告は2020年5月31日朝、同県郡山市内で盗んだトラックを無免許で運転し、三春町の国道で路肩を歩いていた橋本茂さん=当時(55)=と三瓶美保さん=同(52)=を故意にはねて殺害し、そのまま逃走したとされる。
この事件が死刑になるかどうかはともかく(私は死刑反対論者なので、積極的に死刑にしろとは言いませんが)、まあこういう人物は本当に始末に負えないですね。だいたい
>再び刑務所に入るため事件を起こそうとした
ってねえ(呆れ)。世の中刑務所の方が気が楽だというので刑務所に出入りしている人間もいるようですが、そういう人間はたいていは、無銭飲食やタクシー代踏み倒し(ご丁寧に警察署に行ってくれと頼む人もいます)のような詐欺罪、あるいは万引きとかの軽微な罪をするわけで、なにも2人もこんな通り魔的な殺人などすることはない。だいたいこの人物は、トラックを盗難しているのだから、そのまま警察署にいってトラックを盗みましたと自首すれば、すぐ逮捕してくれます。そうすればたぶん裁判にもかけられて、実刑になる。そんなことも頭に回らないような馬鹿でクズなんでしょうね。それにしてたって
>社会で生活していく自信がなかった。刑務所では衣食住が保証されているから
というのもひどいですよねえ(さらに呆れ)。いや、そういう人間は、私たちが考える以上に世の中に少なくないのかもですが、そんなことのために死刑を求刑されるような重大かつ悪質な事件をすることはないじゃないですか。
そうこう考えるとこれまたいつもの話にありますが、たぶんこの人物はかなり強い発達障害のたぐいがあるんでしょうね。おそらく知的障害もあるのではないか。いや、発達障害や知的障害があるとしたって、こんなひどいことをする人物はめったにいるわけがありませんが、それにしてもたぶんこの犯行は、この人物の精神のあり方と何らかの関係があるのでしょう。この事件についてのネットを検索していて、「週刊新潮」の記事が目にとまりました。これを読んでいてさらに「どうもなあ」の気分になりました。一部引用します。
> 盛藤容疑者は、5月29日に出所したばかりだった。そのまま郡山市の知人宅に滞在し、知人の経営する会社で働くはずだった。しかし、31日朝に知人のトラックを盗んだ。およそ5キロ離れた現場に向かい、国道を歩く2人を発見する。いったんは通り過ぎ、Uターンして2人を襲ったのだ。
これ読んだとき私正直絶句しました。
>知人の経営する会社で働くはずだった。しかし、31日朝に知人のトラックを盗んだ。
てめえどれだけ他人に迷惑をかければ気が済むんだよ!!!
>「刑務所に入っていたというのもニュースで知ったほどだから、その辺はよく分からないけどね。でも、以前、会った時は、『塗装の仕事をしている』って言うから、しっかりやれよってハッパかけといたんだよ。カッとなるところがあるのかなあ。昔は結婚もしていたんだけど、女房が出て行っちゃってね。彼女の友人に居場所を聞き出そうとして、車に連れ込んだら警察に通報されて、監禁で逮捕されたこともあった」(同・近隣住民)
別の住民も言う。
「パチンコ屋で球が出ないからと暴れて、警察の厄介になったと聞いたことがある。ただ、あくまで噂だよ」
近隣住民の話がどれくらい正しいのかはわかりませんが、多分ですが当たらずといえども遠からずくらいのところなのかもですね。めったなことはいいませんが。
だいたい前科者は、そもそもそう容易に職などにつけないわけで、この人物は年齢も50歳なわけで、立場としてはきわめて恵まれていると考えられます。いや、その知人の会社というのがすごいブラック企業だったんですかね? そのあたり不明ですが、仮にそうであっても殺人なんかをすることはない(当たり前)。
そしてこの記事は、次のように締めくくられています。
> さて、殺人罪で起訴された盛藤容疑者には、どんな判決が下されるのだろうか。元検事で東京地検特捜部副部長も務めた若狭勝弁護士に聞いた。
「出所2日後の犯罪なら、累犯前科で刑は加重されます。殺人事件であることも明らかで、情状酌量の余地もありません。ただ、2人殺せば死刑などとよく言われますが、強盗目的だったり、チェーンソーで首を切るとか、犯行対応が残忍なものでないと死刑にならないケースが多い。今回の事件の場合、個人的には死刑にしていいと思いますが、実際は無期か懲役30年といったところではないでしょうか。検察としては、残忍性は無論、無差別殺人であることを強調しないと死刑の求刑も難しいかもしれません。死刑の求刑ができれば、1審は裁判員裁判ですから、裁判員の方も納得するでしょうし、何より懲役刑では容疑者の希望通りになってしまいますからね。1審で死刑の判決が下される可能性は高い。しかし、高裁ではひっくり返されると思います」
私も個人的にはこの犯人は、死刑判決にはならないのではないかと思いますが、それはともかく。死刑は求刑されたし、弁護側も無期懲役を訴えているので、多分判決は、軽くて無期懲役だと思われます。無期懲役求刑の無期懲役判決と、死刑求刑の無期懲役判決では、後者のほうが仮釈放ほか厳しい処遇となります。多分ですが、50歳という年齢からしても、この人物は無期懲役判決であっても仮釈放はなかなか認められないと思いますね。それはご当人の不徳のいたすところで仕方ありませんが、どうもこの人物は、事件をするときには、そんなことをほとんど認識していなかったようですね。もっとも死刑事件の犯人なんてのは、公安事件のようにそれなりの覚悟のある犯罪でなければ、たいていは犯行中に自分の行く末なんか考えないものですが。
それにしてもこういう人物って、どう対処すればいいんですかね。報道されているところでは、すくなくともこの人物は、今月犯行20年というのでいろいろ報道されている附属池田小事件の犯人のような異常な人間ではないようだし、前科者としてもそんなに凶悪犯というものではない。たぶんですが、この人物を雇用するつもりだった知人の人も、この人物をそんなにひどい悪人だとは考えていなかったはずであり(そう考えていたら、さすがに雇おうとは思わないでしょう)、誰もがここまでひどい犯罪をするような人物だとは考えていなかったはずです。いや、ご当人も、自分がこんなことをするなんてことは、考えていなかったんじゃないんですかね。よくわかりませんが。
さすがに世の中ここまでひどいことをする人間というのは、そう多くはありませんよ。しかし誰がいつそうなるかというのは予想がつきませんからね。そうなったら「運が悪い」ということになるのでしょうね。通り魔に襲われたら自分の運の悪さを呪うしかありません。被害者に落ち度がないのだからしょうがない。アフリカなどを旅行する際は、米英の大使館には近づくなというのは旅行者の鉄則ですが、東京の地下鉄に乗っていてサリンを撒かれたり、パリの劇場でテロリストに襲われたり、犯罪ではありませんが、飛行機が墜落したりしたって、こっちが悪いわけじゃないのだからしょうがない。運が悪いとしても、それはこちらに何らかの責任があるわけではない。あとは死んだり後遺症があったりしないことを願ったり、弾丸が当たらないことを願ったり、奇跡的に助かることを期待するしかないわけです。そう考えると、せめて不幸や悪運が私たちに直撃しないことを祈るばかりです。
お亡くなりになったお二人のご冥福を祈ってこの記事を終えます。
現在東京阿佐ヶ谷の「ラピュタ阿佐ヶ谷」で、青春彷徨 ─映像詩人 斎藤耕一のあしあと─という企画をやっていまして、1972年公開の斎藤耕一監督『旅の重さ』が、6月6日から12日まで公開されていました。上映最終日の12日土曜日に、主演の高橋洋子が舞台挨拶に登場するというので、それではと行ってみました。といってもこの催しでそれ以前のすべての上映作品を観ています。
この映画では、主演が公募されて、高橋洋子が決定されたのですが、次点が小野寺久美子(のちの秋吉久美子)でした。高橋洋子自身が語るところによると、
>同じオーディションを受けた秋吉久美子さんで決まりかけていたの。松竹の人も「この役だけなら高橋だけど、伸びしろを考えたら秋吉ですよ」って言ったけど、監督だけが私で譲らなかったわね。
とのこと。斎藤監督からすれば、将来の伸びしろなんてことは関係ないものね。
それで映画館に、高橋洋子が姿を見せました。
さっそく席に座って、サインをしてくれます。私も彼女にサインをいただきましたが、写真は諸般の事情があり表に出すのは控えさせていただきます。
こうやって気さくにツーショット写真にも対応してくださいました。私も撮りましたが、これも諸般の事情により私の姿に画像処理をかけてもちょっと写真をお見せできないので、これも省略いたします。申し訳ございません。
壁にサインも書いていました。
こちらです。映画館に行かれた際は、乞うご確認。
幸い私の目の前であいさつがありました。内容をかいつまんでご紹介しますと、「自分も年をとったが、この映画での彼女は永遠にそのままだ」「斎藤監督と日本中舞台挨拶に回ったのが、まだ20年前くらいのような気がする」「旅行雑誌の取材で、この映画のロケ地と同じところを回ったら、担当編集者が『いい映画でした』と言ったので、外泊へ行ったら、地元の老婆が声をかけてくれて、ちょっと前に『旅の重さ』の上映会があった、スタッフとキャストが泊まった旅館は廃業したと話してくれた」というような内容でした。当日は、映画の助監督氏(チーフでなくサードとかの方でしょう)も来ていて、高橋さんも最後まで映画をご覧になりました。彼女は何回この映画を見たかわからないでしょうが、やはり見るたびに自らの原点を思い出すのかもです。映画の終了後、拍手が劇場に鳴り響きました。
サインとツーショットの写真は、わが家宝にさせていただきます。高橋洋子さんありがとうございました。またこの催しは今後も続きますので、興味のある方はぜひどうぞ。詳細は、上にHPをリンクしておきましたので乞うご確認。
先日「おいおい」と思った記事を。
>和歌山で死亡の少女 虐待の疑いも 母親は妹連れ自殺か
2021年6月11日 20時40分
和歌山市内の集合住宅で9日に少女が死亡した事件で、和歌山県警は11日、死亡したのはこの住宅に住む鶴崎心桜(こころ)さん(16)で、死因は全身打撲による外傷性ショックだったと発表した。県警は家庭内で虐待があった疑いがあるとみて、同居の母親とその夫の関与について調べている。
母親(37)と鶴崎さんの妹(4)は9日午後、大阪府南部の海上で浮いているのが見つかり、死亡が確認された。死因は母親が全身打撲による多発外傷、妹は水死だった。県警は母親が妹を道連れに、近くの関西空港連絡橋から飛び降りた可能性が高いとみている。
県警などによると、9日午後2時20分ごろ、母親から「帰ってきたら娘の意識と呼吸がない。血みたいな黒いものを吐いている」と119番通報があった。鶴崎さんは搬送先の病院で死亡が確認された。当時、自宅には鶴崎さんと母、母の夫、妹がいた。夫は妹の実父で、鶴崎さんとは血縁がないという。病院には夫が同行したという。
和歌山市消防局によると、9日午後11時10分ごろ、通行人からの通報で救急隊員が同市の和歌山港に駆けつけると、夫が路上に座り込んでいた。「精神的に嫌なことがあり、カフェインを服用して首をつろうとしたが、失敗した」と説明したといい、病院に搬送されたという。
鶴崎さんに関しては、2013年6月、虐待を受けているとの通告が県の児童相談所にあった。児相による保護者らへの指導で改善がみられ、14年1月に対応を終了したという。県警に相談などはなかったという。
私がこの事件の関係の記事を読んだのは、関空連絡橋から飛び降りて母娘心中があったという関係の記事でした。何の記事を読んだかは定かでないですが、そのときの私の感想は「うわ、ひどい事件だなあ」というものでした。しかしその関係で、16歳の子ども(女子)がおそらく虐待によって死亡したということになると、これはまた最悪の事件だないわざるをえないですね。たぶんですが、母親とその娘(被害者の異父妹)の(おそらく)心中も、この女子の死亡と無関係ではないわけで、当然そうとう密接に関連しているはずであり、そうなるときわめてよろしくない事件ということになりそうです。
新聞が
>県警は家庭内で虐待があった疑いがある
と書くのは、和歌山県警はそうであると確信しているということなのでしょう。すると、鶴崎さんの継父、心中した母娘の夫あるいは実父がそうとうよろしくないことをしたのか。まだめったなことはいえませんが、その可能性も高そうです。このあたりは、今後の取り調べでしょうか。ここは私も推移を見守りたいと思います。
・・・ということを考えていたのですが、どうも実際はそれどころでない背景があったようですね。
【独白】「長女と孫が亡くなった」和歌山カレー事件の林健治さん 16歳孫が変死後、長女が自殺か
> この事件から3日後の12日夜、健治さんの姿は、捜査している和歌山東署にあった。事情聴取の直後、健治さんは涙ぐみながら記者にこう語った。
「死んだBちゃんは長女Aの娘、ワシと眞須美の初孫やろ、居ても立っても居られずに警察に行った。捜査の担当者と話したが、まだ捜査中で、ハッキリとは言えない様子だったが、1時間近く話をした。自殺したのはうちの長女で一緒に亡くなったのはCちゃんであるのは間違いないようだ」
何があったかはつまびらかでありませんが、たぶん母親が(無罪を訴えているとはいえ)死刑囚でいつ執行されるかもしれないという状況にあって、そして娘さん自身もその件で相当過酷な目にあったかと推察されますので、その件とこの事件(娘さんの死と心中)は無関係ではないのでしょう。
それにしても継続的な虐待があったとなると、これもひどいですねえ。どうしてそうなったのか、事実かどうかもふくめて断言しかねる様々な問題があることは理解しますが、実に悲惨ですね。死んでしまった「Bちゃん(鶴崎心桜さん)」も「Aさん」も、たぶんAさんによって無理心中に巻き込まれたと思われる「Cちゃん」も。
なんらかの重大事件の犯人の身内が自ら命を絶つということは確かにあります。連合赤軍の坂東國男の父親や、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の父親も自殺をしています。連合赤軍も宮崎の事件も、どちらも日本の犯罪史に残るきわめて重大な事件でありますが、確認されている限りでは、さすがに今回のようなひどいケースはほかにないのではないか。あったとしてもそう多くはないはず。
今回の事件が、坂東や宮崎の父親ほどの、身内の犯罪を起因とする因果関係があるのかどうかは定かでありませんが、これはやはり「加害者家族のケア」ということもある程度考えないといけないかなと思います。てめえいつも被害者家族を批判しているじゃないかとか、被害者(家族)のほうが対応は優先されるべきだとかいろいろなご意見はあるでしょうが(なお私が批判する被害者遺族というのは、相当ひどいことを発言しているから批判しているのであって、みんながみんなを批判しているわけではありません)、自殺や心中とまではいわずとも、相当苦しい目にあっている人々は少なくないはずです。ここは、この問題に取り組んでいる阿部恭子さんのご著書を紹介します。彼女はこの関係のNPOも運営しています。
私もこの件についてそんなに勉強しているわけでもありませんが、私なりにいろいろと学んでいきたいと思います。最後に、お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
周恩来と鄧穎超ですかね。すみません、当方の撮影技術の低さと、当時の私のカメラの性能の低さにより、お見苦しい写真多数なことを今のうちにお詫びしておきます。
あらためて写真を撮ります。
晩年にいたるまでハンサムな人物です。
周恩来は、日本に留学していました。
>船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。河上肇の著書で初めてマルクス主義に触れ、京都大学でその講義を聴講もしている。
とあります。
周恩来は、日本ともいろいろ縁のある人間だったと思います。
毛沢東が余裕の表情ですね。
建国直前の時期ですかね。
やはりこのあたりの顔が、周恩来という印象が強い気がします。
1949年10月1日の、中華人民共和国建国の宣言の際の写真ですかね。
天津に登録をしていたのですね。周が亡くなるのは1976年ですから、その直前のものですかね。
こちらは「北京市」とありますね。
1972年の日中国交回復の際の写真ですかね。
ニクソン大統領との写真ですかね。
まだまだ続きます。
(つづく)
bogus-simotukareさんの記事を読んでいて、「おいおい」と思った話を。
「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年6/3分:荒木和博の巻)(追記あり)
つまり荒木が
という記事で、北朝鮮問題や拉致問題にかかわるハニートラップ関係の話をしたというのですが、この記事ではその点についてはふれません。この件についてもまた話をしてみたいのですが、それは後日ということで。今回の記事での主眼は、ドイツにおける日本海軍駐在武官の「ハニートラップ」の関係です。
Wikipediaの「ハニートラップ」で、つぎのような記述があります。注釈の番号は削除します。
>第二次世界大戦前の日本海軍がナチス・ドイツに傾斜したことを疑問に思った半藤一利は、ある取材で元海軍中佐・千早正隆に質問したところ、その原因がハニートラップであると答えたとする。それによると、駐在武官としてドイツに滞在している間にナチスは美人のメイドを派遣して来て、いつの間にかナチスの色仕掛けに篭絡され、気がつけば、ナチスびいきになっていたという。こうしたことが原因のためか、元海軍の多くが、質問に対して黙ることが多く、聞き出せたのも、うっかり話してしまった感があるとしている。
bogus-simotukareさんの記事では、その関係で、このような記事も紹介されています。
>宮崎駿と半藤一利の対談本を読んだ。
『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』(文藝春秋、2013年)で、映画『風立ちぬ』を半藤氏が見る前後の2回にわたって行われた対談を基にしている。
(中略)
その中で「へー」と思ったのが、半藤氏が語った表題の件。
第二次大戦で日本はドイツ、イタリアと同盟を組んだことから、日本人の多くがドイツ人は親日的だと思っているが、両氏はそうではない、と考えている。
ドイツは黄禍論の本場で、日清戦争で三国干渉を主導したのをはじめ、日露戦争でロシア側に就き、第一次大戦では敵国だった。
半藤氏は、なのに「なぜ特に海軍軍人が親ドイツなのか」聞いて回ったところ、ある海軍士官が「ハニートラップだよ」と漏らしたという。ドイツ留学や駐在の海軍軍人たちは、ナチスドイツから女性をあてがわれていたが、イギリスやアメリカでは同様のことはなかったらしい。
(後略)
こちらの記事も紹介されていました。
>半藤 (……)それにしてもなぜ日本人は、とりわけ海軍軍人がドイツにあんなに入れ込んだのか。
宮崎 ほんとに不思議です。
半藤 なので私、「日本海軍はなぜ親独になったのですか?」とずいぶん関係者に聞いたんです。するとみなさん「どちらもほぼ単一民族だし、規律正しいし、後進国家であったし」などととってつけたようなことばかり言う。ところがあるとき某海軍士官がポロッと漏らしたんです。「ハニー・トラップだよ」と。つまりドイツに留学をしたり、駐在していた海軍士官に、ナチスは女性を当てがったと言うんです。
宮崎 あ、そうだったんですか。「ハニー・トラップ」。凄い言葉ですね。
まあ宮崎駿なんて、しょせん歴史に関しては素人さんですからね。歴史について造詣の深く本もたくさん出している半藤氏からこういう話をされたら、「それほんとですか」とも聞けないでしょうしねえ(苦笑)。聞いたところで「いや、そうなんです」と言われたら、それ以上のことも言えないでしょう。bogus-simotukareさんもご指摘なように
>それが「対談の名に値するのか」は甚だ疑問です。
というものでしかないでしょう。だいたいここで半藤氏がハニートラップがあったとする論拠はかなり薄弱ですからね。これだけではなんともいえない。半藤氏は、どの程度周辺取材をしたのか。どうなんですかねえ(苦笑)。なおこの件では、この記事の続きをお読みになってください。
そういうわけで、さっそくまずは、Wikipediaに出典として記載されている「ちくまプリマー新書」から入手しました。図書館で借ります。
さらに宮崎駿との対談本も。
それで上の2冊では、その某海軍士官の実名は出ていないみたいですが、Wikipediaに載っている参考文献で、その士官名(千早正隆)が明記されているらしいこちらは、この記事執筆時点でまだ未入手です。
そもそも論として、千早氏って別にドイツ駐在武官だったわけでもないみたいですからね。いわば彼が、どっかで聞いた話(あるいは、彼自身が勝手に作った話である可能性すら否定できません)なわけで、その話がどれくらい信憑性があるのかはかなり怪しいというべきじゃないですかね。いずれにせよそうとう綿密に周辺取材をしなければ、公にするに値しない話でしょう。そのあたりはどうなのか。
ではまずちくまプリマー新書からみてみましょう。以下p.115からの引用です。1959年以降に、半藤氏が旧軍関係者からいろいろ話を聞いていた時期のことです。ってことは、(たぶん)千早氏の証言が出た時期は、1970年代半ばくらいなのですかね。
>そういえば当時、「海軍はなぜあんなにナチスドイツに傾斜してしまったのですか?」と、これは何人かに聞いたのですが、「どうしてだろうねえ」などとみなさん口を濁していました。長らくこれが謎だったのですが、この十数年のち、ある取材で元海軍中佐がペロッとしゃべった。「あれはハニートラップにかかっちゃったんだよ」と。
駐在武官としてドイツに滞在しているあいだナチスは美人のメイドを日本の海軍さんに派遣したそうな。それでいつの間にかナチスの色仕掛けに籠絡され、気がついたらナチスびいきになっていたというわけです。
(以上、改行にさいしては、行あけをし、また段落の最初の字の一字下げは省略しました。以下同じ)
いや、
>ナチスびいき
と
>ナチスドイツに傾斜
とでは、だいぶ距離があるかと思いますけどね(苦笑)。美人のメイドに感激したということと、そこで国家体制として日独同盟に傾倒するってこととは、直結しないでしょう(笑)。だいたい海軍武官だって何人もいるわけで、その人たちがみんながみんな籠絡されたというものでもないはず。そういう女遊びが大っ嫌いという人間だっているし、好きでもメイドとかとは不可と考える人も多いはずです。当時の海軍軍人がナチスびいきになった主な理由(さすがに半藤氏も、それだけでそうなったとまではいわないにしても)がハニートラップというのは、いくらなんでも考えにくいですよねえ。そもそも半藤氏の
>海軍はなぜあんなにナチスドイツに傾斜してしまったのですか?
なんて質問だって、そんなに端的に答えられるようなものではないじゃないですか。たとえば日本の政治家、外務省をはじめとする役人、右翼系の文化人などは、なぜあそこまで米国依存なのかなんて質問を誰かにしたところで、いろいろな理由は挙げられますが、なかなか端的に答えられるものでもないし、またその答えの妥当性もいろいろと問題になる。それこそいろいろな事情が複雑に絡まっているわけで、そんなの明快な回答を出せというほうが無理です。
こんなことを「ハニートラップ」なんてことで明快に解釈・説明しちゃう半藤氏という人物も、ひどい人間だよね(苦笑)。正直私が先日記事にした、警察に確認しないで交通事故の事実誤認記事を書いて沖縄の地方紙を罵倒した記者(高木桂一)や、これも明らかに先方に確認をしないで南京の祈念館が展示の写真を撤去したなんていうデマ記事を書いた記者(牛田久美)といったクズ記者連中と同レベルのデマ拡散者といわれても当然じゃないですかね。
だいたい日本は歴史的にドイツから強く影響を受けていました。大日本帝国憲法がビスマルクほかドイツ帝国の強い影響をうけて制定されたのはいうまでもないし、統治体系などもいろいろドイツを参考にしています。プロイセンによるドイツ帝国成立と明治維新はだいたい同じ時期でしたから、新生日本としてもいろいろ参考にできることが多かった。理数系でも、当時は、エリート医師はドイツに留学したものです。新しい1000円札の肖像となる北里柴三郎や森鷗外、斎藤茂吉などもドイツ留学(茂吉は、オーストリアでも留学)したわけです。文学なども、当時はゲーテなどは日本では今日など比較にならないくらい影響があったし、その影響は、今日でも大学の第二外国語でドイツ語が筆頭であるあたりにもうかがえます。獨協大学は、獨逸学協会学校を起源としているくらいです。今日でも、ドイツは欧州でも格の違う経済大国であることもいうまでもありません。そうであれば、当時の海軍軍人たちがドイツにあこがれ、またいろいろと日本の模範にと考えたことは何ら不自然な話ではないわけです。
ただ正直これ、話の次元が違うということは承知の上で申し上げますと、そもそも「ちくまプリマー新書」なんていう未成年者を主な読者対象としている新書で、こんな「ハニートラップ」の話なんか書いていいんですかね(苦笑)。編集者から「これよくないんじゃないんですか」というような注意とか、読者から何らかの否定的な反応はなかったのか。こういう話は、するのであれば大人向けの本ですればいいし、読者も「ハニートラップ」を過大評価するような誤解をしないか。まあそういうことを言えば、明らかに半藤氏は、ハニートラップの効果を過大に考えているので、それはある意味仕方ないし当然なことではありますが。それなら編集者が注意すべきことでしょう。
いずれにせよ私見を述べると、ハニートラップって、個々の人間に仕組んで成功するということはあっても、ここで半藤本が述べているように継続的に行ってしかも効果があるってものではないでしょう。当たりまえですが、海軍省だってそのあたりはいろいろ情報をはるし、ハニートラップに引っかからなかった駐在武官からも適宜報告はあるでしょう。
しかしこれでは、私も半藤氏に対する評価はがた落ちですね。まるっきりトンデモじゃないですか。私は、彼が昭和天皇に対して大変好意的な背景には、彼なりの戦略があると思っていましたが、これではそれもどんなもんかいなです(笑)。ともかく「ハニートラップ」なんていいだすと、なんでもありになっちゃいますからね。よほど堅い証拠がなければそうそうとりあげられるものではないでしょう(当たり前)。
では、次は宮崎本から。前の部分で引用されたくだりの続きを。(p.174 ~p.175)
>半藤
それを聞いてから、ドイツ留学やドイツ駐在をした人に次から次へと尋ねたところ、半分以上は否定しましたけれど、三分の一くらいは認めましたね。どうやらアメリカとイギリスはそういうことはなかったようですがね。親米英か親独か。あるときからなだれを打って親独になった裏には、そんな情けない事情もあったんです。
どうなんですかねえ、これ(笑)。
>半分以上は否定しましたけれど、三分の一くらいは認めましたね。
っていうのは、「ハニートラップがあった」ということは認めたとしても、さすがに三分の一くらいの人が、大要「ハニートラップのために、日本の海軍軍人は
>なだれを打って親独になった
のだ」とまで認めたとは、当方にはちょっと信じがたいのですが。だいたいそんな効果があるのなら、
>どうやらアメリカとイギリスはそういうことはなかったようですがね。
というのも変な話です。英米に限らず徹底的に活用するに決まっています。
そもそもそんなことを言い出したら、「独ソ不可侵条約は、ソ連がナチスのハニートラップにやられたのだ(あるいはその反対)」とか「英国の対ドイツ宥和政策は、チェンバレンら英国首脳がナチスのハニートラップにやられたのだ」、日本だって「日ソ中立条約の締結は、ソ連側のハニートラップの効果があったのだ(あるいはその反対)」とか何でもいえてしまう。戦後の外交だって、日本の政治家、役人、右翼文化人の対米追従は(以下略)、田中角栄の日中国交回復は(以下略)、安倍晋三の対中国強硬政策断念は(以下略)とか何だってありでしょう。こういうことは、よほど堅い証拠がなければ書くべきではない。私も、半藤氏の書いていることを100パーデタラメとまではいいませんが、半藤氏がほざくほど決定的なものではないでしょう。
まだまだ書きたいことはありますが、続きは、文春新書を入手してから書くことにします。
2022年4月17日追記:すみません。(下)の記事をリンクしていませんでした。興味のある方は、下の記事をご参照ください。
「ハニートラップ」なんてことで、そのような歴史の話を解釈するのはよろしくない(半藤一利氏って、こんなトンデモだったのという気がする)(下)