あ、すみません。皆さま重々ご承知の記事でしょうが・・・。
>昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す-日米文書で判明
蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の1971年6月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。
この問題について、日本の外交文書にも「陛下が(中国問題を)心配しておられた」というマイヤー大使に対する佐藤首相の発言が記載されている。昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。しかし、国連代表権は71年10月、毛沢東主席の中華人民共和国(中国)政府に移った。
こうした経緯は、国連の中国代表権問題を詳しく検証した井上正也・成蹊大学法学部准教授(日本外交史)の研究で明らかになっている。「二つの中国」で揺れ動いた戦後70年の日中関係をめぐる「秘密折衝」の一幕が浮かび上がったが、井上氏は「蒋介石の行く末を案じた天皇の意向は、台湾擁護にこだわった佐藤の姿勢に少なからず影響を与えたのではないか」と解説する。
米外交文書によると、71年6月2日にマイヤー大使と会談した佐藤首相は「天皇は建前上、政治問題に関心を持たないのだが、(蒋介石)総統が過去において日本のために多くのことをやってくれたと述べた」とした上で、天皇による「蒋介石支持」の意向を大使に伝えた。日本側外交文書はこれほど明確ではないが、佐藤首相が大使に天皇の「心配」を伝え、「日本政府としては蒋介石総統に対する信義の問題ということもあり、本問題については慎重検討中である」と説明。「まず台湾の国連における議席を確保する要がある」と訴えた。
一方、秘密指定が解除された「佐藤首相・マイヤー大使会談」記録を保管する日本外務省の外交史料館(東京)では、「実は先刻陛下に御報告の際、通常陛下は政治問題には直接関与されないことになっているが、特にこの問題については心配しておられた」という佐藤首相の発言を黒塗りにして公開された。外務省は、天皇の政治関与発言が公になることに神経をとがらせているとみられる。
97年に発行された「佐藤栄作日記」によると、佐藤首相はマイヤー大使との会談に先立ち、宮中に参内し、「中国台湾問題」を奏上したと記している。(2015/07/30-16:58)
>日本政府がしっかりと蒋介石を支持する
>蒋介石の行く末を案じた天皇の意向は、台湾擁護にこだわった佐藤の姿勢に少なからず影響を与えたのではないか
そうですかねえ。ていうか、佐藤がこの話を米国大使にしたということ自体、佐藤が強い台湾支持だったということでしょう。彼自身はその気でないが、天皇が話をしたから米国大使に伝えたとか、そういうことではないでしょう。本来なら佐藤が、「陛下、もうそれは難しいと思います」とかいえばいいし、そうでなくても承っておいてそんな話は米国大使なんかにしなければいいだけの話です。天皇だって、佐藤が台湾支持でなかったらこんな話しないでしょう。
>昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。
いや、天皇制への態度とかはまた違うのかもしれませんが(しかし、1949年に建国した国が、現実問題として戦後の日本の体制に口を出せる余地はほとんどなかったでしょう)、
>中国に残った日本人の引き揚げ
>対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったこと
なんてのは、別に共産党政権だから日本に蒋介石より過酷だなんてことはなかったんじゃないんですかね。たとえば戦犯うんぬんということを言いだせば、中帰連の人たちはどうなんですかね(笑)。1人の死刑も出さずに帰国しましたけど。アカの洗脳を受けた連中のことなんか知らん、ですかね。
つまりは、蒋介石は戦争した相手であっても最終的には仲間だが、毛沢東や周恩来らはなんだろうが付き合いたくない、絶対嫌だ、っていうレベルの話でしょう。要は、昭和天皇の反共理念の発言以上のものではないと思います。どちらにしても、時代錯誤な脳みその持ち主です。
さてここで1つ疑問を。昭和天皇って、田中角さんが日中国交回復をする際は、彼に「しないでくれ」とか頼んだんですかね。そういう情報は耳にしないのでたぶんしなかったんでしょうけど、その時点では国連も台湾が追い出されていたし、ニクソンも訪中していたくらいですから、もうそんなこと頼んでも仕方ないと思っていたんですかね。このあたり、真相がわかれば面白いかもです。
ところで、これはまた違う話題ですが、
>秘密指定が解除された「佐藤首相・マイヤー大使会談」記録を保管する日本外務省の外交史料館(東京)では、「実は先刻陛下に御報告の際、通常陛下は政治問題には直接関与されないことになっているが、特にこの問題については心配しておられた」という佐藤首相の発言を黒塗りにして公開された。外務省は、天皇の政治関与発言が公になることに神経をとがらせているとみられる。
とありますが、別にプライバシー関係の記述じゃないし、もちろん国家機密とかの話でもありませんよね。つまりは、天皇の政治的発言が、憲法にそぐわないとかいう意味合いでしょうが、なにをいまさらながら、日本政府の情報公開の程度の低さにうんざりします。もっともApemanさんもおっしゃるように、
>まあその点を気にせず堂々と公開されたらされたでちょっと戸惑うかも……(^^;
ということではありますが。
Apemanさんの上の記事と、bogus-simotukareさんの記事を参考にしました。感謝を申し上げます。
>蒋介石は戦争した相手であっても最終的には仲間だが、毛沢東や周恩来らはなんだろうが付き合いたくない
なんだか本多勝一の「殺す側の論理」なんかを思い出しちゃうハナシですね。
汪兆銘政府をおっ立てたり謀略使いまくってでも、中華民国を丸呑みするために蒋介石勢力を排除しようと躍起になっていたくせに、いざ敗戦し中国大陸も共産党の手に落ちたら今度は蒋をせっせと支援するという。
「それが政治」と達観するにはあまりに身もフタもない転身ぶりというか、当の蒋介石も内心「ふざけやがって」と思ってたんだろうなとは想像するんですけどねえ。
それはともかく、関西で遊んでいたので、コメントの返しが遅くなってしまったことをお詫びいたします。
>なんだか本多勝一の「殺す側の論理」なんかを思い出しちゃうハナシですね。
本多さんそういうこと書いておられましたね。つまりは、毛や周は絶対の敵だが、蒋なら場合によっては手を結ぶ、って言うところですかね。
>いざ敗戦し中国大陸も共産党の手に落ちたら今度は蒋をせっせと支援するという。
ですよねえ(笑)。まあ毎度おなじみですが、何とも愚劣な光景です。
>当の蒋介石も内心「ふざけやがって」と思ってたんだろうなとは想像するんですけどねえ。
彼も、台湾に逃げた身分だから、偉そうなことは口にしない、って言うだけのことでしょう。
>蒋介石もお人好しで寛大な政策をしたわけではありませんしね.
まさに自分が生き残るためにはどうすればいいかと考えた上でのぎりぎりの選択ですよね。
>国共内戦で負けが込んでいた毛沢東は日本が攻めてきたおかげで蒋介石と共闘して「助かった」わけですから。
日中戦争がなければ共産党政権が樹立されなかっただろうということは、よく指摘されているところです。
>汪兆銘政府をおっ立てたり
結局汪を「引っこ抜けば蒋介石政権が潰れるほどの大物」と認識してたのが日本にとって期待はずれと言う事だったんでしょう。こうした認識ミスが積み重なったあげくの1945年の敗戦だったわけです。
https://www.j-cast.com/tv/2017/09/22308481.html
1972年、田中角栄政権の下で実現した日中国交回復。実はその1年前、佐藤栄作総理によって密使が香港に送り込まれ、極秘の交渉が進んでいたことが分かった。
密使の名は、江ぐち真比古(えぐち・まひこ)。佐藤総理は『佐藤栄作日記』に、江ぐちに中国との交渉を託したことを記しているが、その詳細は分かっていなかった。今回、当時の総理秘書官が、江ぐちとの唯一の連絡役を佐藤から命じられていたことを初めて証言。江ぐちのもたらす情報により、佐藤は周恩来に親書を送り、国交正常化へ向け北京を訪問したいと伝えていたことが明らかになった。
密使・江ぐちは、香港でどのような人物と交渉したのか。中国はどこまで日本に歩み寄っていたのか。知られざる「極秘交渉」に迫る。
■中曽根康弘『自省録・歴史法廷の被告として』(2004年、新潮社)抜粋
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2011-02-22-11
あまり目立ちませんが、佐藤さんのもう一つの功績は、日中国交回復の軌道を敷いたことです。
あの頃、佐藤さんは、香港経由で中国に密使を送っていました。その仕事は、江ぐち真比古という人物に委ねられていました。
(中略)
佐藤さんは1972年9月に周恩来宛の親書を彼に託したといいます。その内容は、日中国交正常化のために訪中して意見交換を行いたいというものだったようです。
結局、それは周恩来に拒否されたようですが、台湾(中華民国)との関係を明確にしなければ受け入れられないというのが理由だったといいます。そこで佐藤さんは、先方の意向を尊重した別の親書をもう一度渡したともいいます。
それが、翌年四月になってようやく周恩来の手元に届き、六月に江ぐち氏は周恩来からの返書を受け取って佐藤さんに見せたが、時すでに遅し。佐藤さんは退陣を余儀なくされて、この件は立ち消えになったというのです。
ところで、この江ぐち真比古氏の素性についてはその後も手を尽くして調べましたが、よく分りません。
(引用終わり)
最後の最後には佐藤も「日中国交正常化」を認めたわけです。
前に別記事でご紹介した中公新書の、日中国交正常化の本によると、周恩来は佐藤では話にならんというように考えていたと書かれていましたね。中曽根の話、江ぐち氏が、周の返書を佐藤に渡したとなると、そこに具体的にどのように書かれていたのかはあれですが、やはり佐藤としては沖縄返還で手いっぱいだったのだろうなという気がします。彼のような優秀で長期政権を成し遂げた政治家でも、日中国交正常化を自分で成し遂げるのは難しかったのでしょうね。
これはリンク先の記事
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2011-02-22-11
がこう書いてあるんですが、佐藤の退陣は「1972年7月」なので「1971年9月」の誤記ですね。気付かなくてすみません。訂正しておきます。
繰り返しになりますが、たぶん周は佐藤を嫌っていたでしょうから、佐藤の国交正常化は難しかったでしょうね。