ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

私も同じようなものだろうが、人間なかなか自分がよろしくない状況にあるということを公然とは認めたがらない

2022-01-31 00:00:00 | Weblog

私の父親が、その死のどれくらい前かは定かでないのですが、ある時今度京都に行くという話を私にしたことがあります。日帰りで帰ってくると父がいったので、思わず私「泊ってくればいいじゃん」といいましたところ、父は笑いながら「いやあ、いいんだよ」と答えました。なにがいいのか当時さっぱり理解できませんでしたが、そして今も大して理解できていないのですが、どうも考えるに、父はその時点ですでに1人で宿泊施設に滞在するというのが精神的に難しくなっていたようです。そして、多分その時が、父が最後に京都に行った機会だったと思いますが、おそらくですが、1人で遠出したのもその時が最後だったのかと思います。

あとで母が私に語ったところによると、イタリアに1人で行った際、どうもかなり嫌なことがあったらしいということです。具体的なことはわかりませんが、犯罪とかそういうことでなく、自分の判断力の衰えに起因する何かだったのかなという気がします。

母によると、ショッピングセンターだかスーパーマーケットだかに夫婦で買い物に行った際、父が母から離れたがらず、それがかなり不自然だったので、店の保安関係者から万引きと疑われてマークされたこともあったようです。どうもこれも、父が単独になるのが不安で仕方なかったかららしい。私はそういうところを直接は知らないのですが、その話を聞いた際は、なるほどなという気はしました。

で、父は、たとえば私から「泊ればいいじゃん」と言われた際に、「自分は、どうも1人で宿泊施設にいるのが非常に不安なので、それで日帰りするのだ」なんて話はしませんでした。父の居住地から京都まで日帰りで往復することは可能ですが、ビジネスで行くのならともかく観光なら時間がないので、泊まるのが当然ですが、それを理由はともかく父はしなかったというのは、あまり人には言えない理由があったのかと思います。そしてこれは、たぶんですが、父は母に「自分が1人なのが不安だ」なんて話はしませんでした。

世の中一時的に金がない人間なら、他人に「(今)金がない」と言えますが、常に金がない人間は、正直に「金がない」とは言えないという話を聞いたことがあります。たぶんそうなのだろうとは思いますが、私の父のように、かつて世界中を一人で旅して歩いた時代が不可逆的に戻ってこないとなると、自分が現在それがかなわない状況にあるというのは、認めたくないところもあるし、また他人には知られたくないということでもあるのでしょう。

それで思い出しましたが、認知症になると、自分のミスを取り繕うという話もあります。正直に「自分のミスである」なんてことは認めないらしい。父もそういうところがあったのでしょう。そして多分私もそうなのだろうと思います。今の私は、特にそのような問題はありませんが、しかし今後はどうなるかわからない。そうならないことを望みますが、自分の努力だけではしょうがない部分もある。いろいろ考えさせられます。


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