ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

法律家とかジャーナリストとかいう仕事は、情よりも冷徹さが必要なんじゃないの

2013-01-02 00:00:00 | 社会時評
過日、名古屋闇サイト殺人事件被害者の母親に対する何回目かの批判記事を書きました。あの記事自体に特に問題はないと思いますが、あれだけでは物事の本質を語りきれないところがあるなとも感じていました。それはなにかと考えるに、やはり彼女の講演を開催した法科大学院とこの件を報道した新聞の問題であることに気づきます。

私はかなりこっぴどく被害者の母親の主張を批判しましたが、しかしより本質的な問題は、あのような講演を企画して実行した法科大学院にまずはあります。あの講演会が、大学院当局そのものの主催なのか、教員が企画したのか、はたまた院生有志が考え出したのか、授業の一環なのか、一応はそれと独立したものかは分かりませんのでめったなことは言いにくいのですが、将来の法曹を養成するための場が、

>裁判所は判例に固執して殺害された被害者の数にこだわり、加害者の人権ばかりを重視してきた

という趣旨の講演をさせるのは変な話です。法科大学院でそんな内容の講演をするこの母親の神経も相当なものですが、はじめからこんな人をよばなければいいわけで(よべばこのような話をするのは誰だって予想できます)、これは法科大学院に重大な問題があります。

この母親の言う

>加害者の人権

ということの具体的な内容は記事にありませんが、つまりは憲法や刑事訴訟法などで認められている被疑者や被告人の権利のことを言っているのでしょう。この法科大学院は、そのような権利を否定するんですか? 極悪人の国選弁護人や私選弁護人にはならずに、この母親のような被害者あるいはその関係者の代理人になれという教育でもしているんでしょうか。刑事事件の弁護人になるのは、冤罪事件以外なるべきでないとか。さすがにそんなことはないだろうけど。

あえて法科大学院が刑事事件に係った人たちをよぶのなら、同時に元被告・受刑者に話を聞くほうがよっぽど興味深い話が聞けるし、実地にも役立つんじゃありませんかね。あるいは、その家族に話を聞いてもいいのでは。被告や受刑者の家族は、冤罪なら論外ですが、そうでなくても何の責任もないのに非常に理不尽にひどい目にあっているわけだし。

すいませんけど、刑事裁判はまずは、被害者や被害者遺族よりも、被告人中心にものごとを考えなければいけないわけで(そういう点で言うと、私がこの記事で批判したこの女性の「なぜ加害者目線で裁くのか、悔しい」という発言は、正直「なに言ってんの、この人」というレベルの代物です)、あるいはこの法科大学院はそのような人たちもよんでいろいろ話をさせているのかもしれませんが(たぶんしていないでしょう)、このような講演会を開くのはどうもなあです。

しかしですよ。法科大学院よりもっと悪いのが、なんといってもこんな愚にもつかない講演会をわざわざ報道(!)する新聞社ですね。前の記事でも指摘したように、この新聞社は、この母親の主張する

>裁判所は判例に固執して殺害された被害者の数にこだわり、加害者の人権ばかりを重視してきた

みたいな考えを支持されるんですかね? そんなことはないでしょうけど。おそらくこの新聞は、読者が喜びそうなネタという意味でこの件を取材し記事にしているだけでしょうからなんとも考えてはいないんでしょうが、憲法や刑事訴訟法その他で認められている被疑者や被告人の権利くらいは、新聞社はそれを否定するというわけにはいかないんじゃないんですか? 産経新聞だってそんなに露骨にこういった権利を侵害することを支持する論説を紙面に載せはしないでしょうが、この新聞だってそんなことを主張する識者に紙面を提供するんですかね? しないと思うけど。殺人事件被害者遺族の発言なら、そのような内容でも紙面に載せるのはかまわないと考えているんだったら、お話にも何もなりません。どうしようもないとはこのことです。

法科大学院とか新聞社というようなところは、仮に「冷酷」と思われても、法の根本とかはきっちりと守らなければならないんじゃないんですかと思います。新聞もそうですが、とくに法科大学院がなんでこんな人をよんでこんな講演会を開いたのか謎ですが、どうも重大な勘違いをしていませんかね。

あえて言うなら、法科大学院も新聞社も、「情」と「冷徹」を取り違えていませんか。法律家もジャーナリズムも、「情」と「冷徹」では「冷徹」を優先させなければいけないんじゃないの。自分の娘を殺された当事者であるこの母親が支離滅裂な主張をすることはやむをえないところはあるでしょうし(ただ個人的には、それにしてもこの母親の主張はひどすぎると考えています)、その辺にいる一般市民がこの母親に同情するのも仕方ないですが、法科大学院や新聞社は、役割としてはこの母親の意見を紹介するよりも「お母さん、それは違いますよ」(「それは言っても仕方ありませんよ」その他でもかまいません」)とたしなめるのが筋でしょう。実際この女性の主張は妥当じゃないし、正直主張していただいても日本の司法制度を改善する上で参考になるような話ではありません。そんなことは素人の私より、法科大学院や新聞社の方々のほうがずっと深く理解していることでしょう。

法律家とかジャーナリストというのは、ことによったら国家権力ともいやがおうにも戦わざるを得ない仕事であり、そのような場合「冷徹」でなければ仕事にならないでしょう。で、そこまでいわずとも、「情」と「冷徹」とで「冷徹」を優先させられないのなら、法律家やジャーナリストはしてはいけない仕事では? 世の中、私もふくめた第三者は、可能な限り「冷徹」であるべきです。当事者の気持ちは理解できるということとそれは分けて考えるべきです。いつも私が主張する「気持ちは分かる」ということと「主張が正しい」ということは別に考えるということです。この女性の代理人になるのならともかく、この法科大学院も新聞社も、そういうわけではありません。

こういうことを書くと、気分を害する人が多々いるでしょうが、失礼ながらあの母親の言語道断な主張が法科大学院で語られてそれが新聞報道されるという事態はかなり重大だと思うので、しつこく記事にさせていただきました。また、この記事の意図するものは、特定の法科大学院や新聞社を非難するものではないので、固有名詞は書きません。知りたい方は、前の記事を読んでください。
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