拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

「I love you」「I know」

2021-01-13 09:06:19 | 日記

あるダメンズ……いや、単数だからダマン?……の40年前の風貌である。これを掲載したら某美女もご自分の数十年前の写真をアップするということであったので、先履行義務を負う某ダマンが恥を忍んで掲載に踏み切ったのである。某美女は美女というだけあって美女であるから、数十年前も美女であろうに、今とは全然違うとおっしゃる(この一行は「美女」だらけであるが、その用法は微妙に異なる。英語の冠詞を付けると「the美女は、the美女というだけあってa美女であるが」と言った具合である。冠詞と言えば、昨日の記事の冒頭で当初私は致命的なミスを犯した。「a galaxy」とすべきを「the galaxy」としてしまったのである。これでは、「別の銀河系」にならずに我々が住んでいるこの銀河系ということになってしまう。だから急いで訂正(?)した)。その美女(the美女)のことである。the美女はダメンズ好きだという。いや、the美女に言わせると、女性は口には出さぬがみなダメンズが大好物だという。おおっ、がぜん、いきりたつtheダマン!そういうことであるならば、ますますダメンズぶりに磨きをかける覚悟である(と言っていた)。そして、「I love you」と言われたら「I know」と言ってやろうと手ぐすね引いて待っている(と言っていた)。因みに、スターウォーズで「I love you」「I know」を聴けるのは、エピソードⅤでハン・ソロがカーボナイズされる直前、そして、続くエピソードⅥで二人が敵の戦車に追い詰められたシーンである。「I love you」と「I know」を言う二人の組み合わせは同じだが(レイア姫とハン・ソロ)、エピソードⅤでは、レイアの「I love you」に対してソロが「I know」と言うのだが、Ⅵでは逆である。

Dona nobis pacem!

2021-01-12 12:11:24 | 音楽


A long time ago,in a galaxy far,far away、スターウォーズが繰り広げられていた。パンデミック帝国に立ち向かうミサソレ平和連合の戦いである。しかし、帝国の脅威はすさまじく、事前に戦線を離脱する平和連合の兵士が後を絶たない。平和連合はグリーン城に立てこもった。しかし、残った兵の士気は高く、防御に余念がない。頻繁に城の窓を開けて空気を入れ換える。防弾マスクをした兵と兵の間にはしっかり距離をとる。そして、「主よ憐れみ給え」の詞で戦いが始まった。「栄光」と叫んで敵陣に切り込む兵士は勝利を「信じ」て疑わない。平和連合は「聖なるかな」、兵士は「褒められるべきかな」。そして、最後に、グリーン城内に響いたのは「我らに平和を与えたまえ」(Dona nobis pacem)。大いなる祈りの歌であった。帝国の脅威の中、この祈りを捧げることができたのは、とーっても有意義なことであった。

以下は、帝国への戦いを皆に呼びかけた名も無き兵士のお話(以下、その兵士を単に「主宰者」という)。主宰者も自ら武器をとった。長さの違う小筒三丁である。更に、防御のための回転風扇も持ちこんだ。そのほか、小筒を支える足三台、作戦見取り図を載せる台一台、戦費を集めるための皿一個(こちらの世界のピザトレイに似ているという噂がある)等々。これらを二つの大袋につめこんでえっちらこっちら歩く様は無様であり(主宰者はミレニアム・ファルコン号のような自前の船を持ってない)、貧乏感がはんぱない。戦いの主宰者は金持ちであるにこしたことはない。しかし、この主宰者は人に恵まれていた。仲間に心から感謝します、とずっと昔、遠い遠い別の銀河系で言っていたそうだ。

因みに、主宰者がグリーン城にはせ参じる途中でこちらの銀河系の富士山にそっくりな山が見えたそうだ。曇ってるのに偽富士山がくっきり見えるんだな、と主宰者は感心したそうだ。


「もろもろの天」と「おおぞら」の関係

2021-01-10 11:59:57 | 音楽
学生に戻って室内合唱同好会を作るというのは妄想だが意外とよいかも。なぜって、もし出来合いの室内合唱団にアルトで入ろうとすると、無垢な女子学生の中に父親よりも年上のお兄さん(?)が混じるってことだから拒否反応が起きるだろうし私だって入りずらい。しかし、私が始めたんだったら、私が最初からアルトで歌ってるところに女子学生が混ざる形だから私はなんの後ろめたさもない。その室内合唱団の定演で私が東京カテドラルで指揮をした曲の一つがシュッツの「もろもろの天は神の栄光をあらわし」。これを歌いたくてシュッツを歌う会を作ったと言っても過言ではない。この歌詞(詩編19。バッハのBWV76の歌詞でもある)については、これまでもあーだこーだ書いてきた。このたび、若干理解が進んだので、そのことを書いてみよう。まずは、私の勘違いから(ブログのためなら自らの過ちを世間にさらすことを厭わないワタクシ)。この詩編は、「Die Himmelは神の栄光をあらわし、die Festeは御手のわざを示す」で始まるのだが、「Die Himmel」は「もろもろの天」で問題はない(「もろもろ」は複数であることを表す)。問題は「die Feste」。私はこれを「地」だと思っていた。「fest」は「堅い」という形容詞。それが名詞化して「堅い地」と表すと思ったのだ。ミサのグローリアの「天には栄光、地には平和」に影響されたこともある。だが、日本語訳を見たら(最初から見ろ、という話)、「大空」になっている。あらためて辞書を見ると(最初から見ろ、という話)、名詞の「Feste」には「天空」の意味があるという。私はまったく誤っていた。しかし、そうすると疑問が湧く。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」となると、「天」と「大空」の関係性に疑問が生じる。同じものなのか別物なのか?どっちが上でどっちが下?等々。別角度からの疑問として、なぜ「天」がいくつもあるのか、これも不思議である。これについては、萩尾望都の漫画「百億の昼と千億の夜」にあった仏教世界の見取り図、すなわち、いろんな「天」があって、それが上下に重なっている図をイメージしていた。ここまでは以前にも書いた話だ。ここからが初披露の話。「ハックルベリーフィンの冒険」のドイツ語訳を読み終わったので(と言っても、半分は解読不明。そういうところは読み飛ばした)、聖書の創世記をドイツ語で読み始めた(とたんに易しいドイツ語になってほっとする)。すると、神様は、創世の二日目に「Feste」(大空)を作ってそれを「Himmel」(天)と名付けた、とあった。そうか、「Feste」=「Himmel」なんだ!「Himmel」とは別に「Feste」があるのではないのだ、ということが判明した。そうすると、新たな疑問が生じる。「die Himmel」(もろもろの天)は複数である。「die Feste」(大空)は単数である(定冠詞が同じ「die」でも動詞の活用形でそのことが分かる)。なぜイコールなのに一方が複数で他方が単数なのだろう。この問いに対して、私が漠然と持っているイメージはこうである。神様が作った「die Feste」(大空)は一個の大きなドーム。その部分部分に神様が「天」という名前を付けた、例えば、ここは「東の天」、こっちは「西の天」と言った具合。まさに「もろもろの天」である。そう考えると、単数複数の問題も筋が通る。今日の話はここまで。因みに、私が子供の頃「天と地と」という大河ドラマがあった。上杉謙信の生涯を描いていた。若き石坂浩二が謙信だった。私の謙信好きはこのドラマがきっかけである。謙信の宿命のライバルと言えば武田信玄。戦いに強かったのはどっちだ?ってことが議論になるが、私の父を含む山梨県人はみな信玄だと言う。だが、私の祖母(父の母)が「どうも上杉謙信の方が強かったみたいだなー」と言ったのを覚えている。後から知ったが、祖母は新潟から山梨に嫁いできたのだった。

パートナー

2021-01-09 12:07:16 | 音楽
録画してあった「逆転人生」は照ノ富士の復活劇。怪我や病気で大関を陥落し、無給の序二段まで番付を落としたっていったら普通はやめている。そこから再起して幕内優勝。大関の座へのカムバックまであと一息である。そんな照ノ富士を支えたのは、引退させなかった師匠、そして、どん底にあったときに結婚した奥様だそうだ。「どん底にあったときに」というのがいいねぇ。奥さんの「ドルジハンド」の名は、あたかも「フィデリオ」の「レオノーレ」のように心に響いた。照ノ富士はいい結婚をして良かったね、と思ってSNSを見たら、めでたい話がここにも!歌仲間の某さんが再婚報告をしている!え?お相手の名は最近見た名だぞ。今度、連れてこられる方だよね。そっか、そういうことだったのか。いや、おめでとうございます。なんだか、最近、回りに頻繁に美女が現れるのだが、そうして現れた美女の横にはっと気がつくと伴侶がいる。うらやましい限り。そういう真の愛は静かに、密かに進行するのだね。私のように、「恋人か女房があればいい」と大声で騒いでいてはだめなようだ。よしっ、私も沈黙しよう。…………………………………………沈黙したらしっぱなしで、何も起きそうにない。やはり沈黙は私のガラではない。ま、とにかく、めでたい話はめでたい。コロナ禍も二人で支え合えば乗り切れるというものだ。このご時世、レストランや宿泊施設はキャンセルが続いて大変だという。お気持ちをお察しします。私も、まさに今、ボディーブローを打ち込まれるようにかなりの数のキャンセルを喰らってるところである(年賀状のお返事ではなく、キャンセル通知へのお返事ばかり書いている昨今である)。キャンセルでへこんだ気分は、パートナーがあれば二人で癒やす。パートナーのいない私はブログに書いて発散する。すなわち、このブログの読者は私のパートナーである(すみません、ことわりもなく勝手にパートナーに仕立ててます)。

室内合唱団を同好会から作り直すという妄想をおかずに何杯もご飯が食べられそうな私

2021-01-08 11:06:02 | 音楽
昨日の記事に法律を勉強した者云々と書いて若干こそばゆいというか忸怩たる思いがしたのは私が法学部を出ていないせい。もちろん受験勉強よりよっぽど勉強して試験を通って今の商売をしているわけだし、それどころか受験指導までしてるんだから勉強してないわけはないのだが、日本って国は学校で専門として勉強してないとプロと認めない風潮があるような気がして、権威主義的でイヤだなと思いながらも自分自身がそういう意識にとらわれているところがまたイヤなのだ。そんなことを言ったらドイツ語もそう。ゲーテ・インスティテュートの中級修了試験を受かっているのだから勉強してないわけはないのだが、独文科を出た人を前にすると水戸黄門の印籠を前にした代官のようにへへーっなってしまう。まして、音楽となればそういう感はマックス。だが、考えてみると、私の生涯で、子供時代から通算して一番時間を費やしてきたのは音楽である。だが、先生はだーれ?と聞かれて「ベートーヴェンとヴェルディ」ではまったくつぶしが効かない。そう言えば、「マイスタージンガー」でヴァルター・フォン・シュトルツィングが、先生はだーれ?と聞かれて大昔の吟遊詩人である「ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ」と答えてマイスターたちに大馬鹿にされるシーンがある。ドイツと日本は、そういうところは似てるかもしれない。「魔弾の射手」で、最後に「隠者」ってぇのが出てきて偉そうにのたまうと殿様を始め人々がみなへへーっとなって一件落着となるあたり、まるで水戸黄門の代官のようで、権威主義的だなー、と思う。因みに、ヴェルディは音楽大学の入試に失敗して大学に通えなかったのだが、ヴェルディが偉くなると、その音楽大学がちゃっかり校名にヴェルディの名を冠するあたりはさすがイタリアである。じゃあ、私が専攻したのは何かというと経済である。今、私の人生において見事になんの役にもなってない。いや、実は目に見えない何かが私の人生の手助けになっているかもと思って一生懸命考えても、まったくない。もっぱら室内合唱団で歌を歌っていた4年間であった。そういうこともあって、ぼちぼち仕事をやめて、母校の大学に、今度は文学部独文科とやらに学士入学で入ってみたい、と思うことがある。授業料を調べたこともある。だが、その気持ちの中にうっすらと潜んでいた魂胆~室内合唱団にもう一度入ってアルトを歌う~は、室内合唱団がなくなってしまったので実現不能となった。今、思いついた!だったら、誰かと誰かと誰かと一緒に集団で楽士(これは、面白い変換!)……じゃなくて学士入学して、同好会から作り直そうか。この妄想をおかずにして何杯もご飯を食べられそうである。

カフェの女給

2021-01-07 13:31:16 | 言葉
今の朝ドラで千代がカフェーの女給をやっている。朝ドラでは戦前がよく舞台になるからカフェーは何度か登場している。「カフェー」は、法律の勉強をした者にとっては「カフェー丸玉女給事件」でおなじみであり、コーヒーを飲むところではなく、今で言うキャバクラみたいなところで、「女給」はホステスのことだということを知識として知っているが、朝ドラを見て、なるほどこんな感じだったのか、と勉強になる。その「カフェー丸玉女給事件」を、「チコちゃんのNHK多分こうだった劇場」ならぬ「マコちゃんの歌いまくる会ホントにそうだったの?劇場」で再現しよう。「今日は手ぇくらいにぎらしてーな」「手ぇにぎらしてあげたら何してくれますの?」「金をあげるでー。それで独立したらどーや。おまはんもこんなとこにいたら一生うだつがあがらんよってに」「ほんま?おーきに!だんさんやさしいわー。ほな、手ぇでもなんでもさわっておくれやす」。これがある夜のお話。なぜ関西弁なのかと言うと、舞台が道頓堀だからである(おーっ、今の朝ドラも先週までは道頓堀が舞台だった)。後日、昼日中にこの二人が再会する。「だんさん、こないだのお話やすけどな、うち、いー出物見つけたんだす。それでこないだ約束してくれはったお金だすけどな……」「金?なんのことかいな。わて、そんなこと約束した覚えはない」「えーっ?だんさん話が違うわ……」。で、女給が客に約束どおり金を払えと訴えを起こした。贈与契約の履行請求である。で、裁判所が下した結論は、この場合に客が負う債務は自然債務。自然債務は履行を強要できないが、債務があることには違いないから履行すればそれは有効になるというしろもの。だから、女給は客から無理矢理金をとることはできないが、客が任意に払えばそれは返さなくてよい、ということである。法律を勉強する者は、「自然債務」のところでこの判例を知るのである。ところで、カフェーがどいうことこだったのかということは朝ドラで分かるが、現在のキャバクラがどういうところなのか正直私は知らない。行ったことがないのである。いかん。人に「カフェーとは現在のキャバクラのことなんだよ」といっときながらどういうとこだか知らないでは話にならない。よしっ、キャバクラに行くことを今年の抱負にしよう。あくまでもお勉強のためである。それに、夜ごと募る寂しさを紛らわせてくれるところなのかもしれないし(そうなの?)。でも、コロナが収束するまでは行けないな。まったく、外国ではとっくにワクチン接種が始まってるのに日本はまだ。それでもって、打った後の心配ばかりしている。石橋を叩いて渡らないにもほどがある。そうかと思えば、プライムミニスター・ガースーが提案した「飲食マスク」については面倒くさいと文句を言う。私はガースーが言う前から飲食マスクを実践していた。あれほど飲むと訳の分からなく私でも、しっかり締めまでマスクをはずさなかった。私は現政権の支持者ではないが、飲食マスクには賛成である。飲食店が時短になるよりずっとましだと思う。

足の裏/ユーロのへそくり

2021-01-06 20:38:04 | 日記

テレビの通販でキャスターが「是非、ご注文下さい」の「是非」のところで声を裏返しつつ目をつぶったのを見て、アフリカツノガエルが獲物を飲み込むときに目がひっこむのを思い出した。通販と言えば、かなり昔、テレビで紹介してた財布がものすごく機能的に思えて注文。

おおえばりで持ち歩いてたらそれは女性が持つものだと言われた。いいと思ったんだけどな。そういうところがピアノのK子さんに「頭ん中はおばさん」と言われる所以だろうか。だが、恋愛対象は女性である……いや、この言い訳も気をつけないと。こないだ某会の反省会で彼女が欲しいと言ってたら「イージマさんはそんなこと言ってて本当は女性が好きでないんじゃないの?」という人がいる。なぜそう思うの?と聴くと「しょっちゅう、『恋愛対象が女性』って言ってるから逆に怪しい」んだと。私がどんなに女好きかは私にくどかれた人なら分かる。出てきて証言してっ!(しかし、私にくどかれた女性の集団(数学で言うところの)は、当該集団を「某麹味噌合唱団」という集団の部分集合ととらえた場合は空集団である)。いいもん。そんなに言うんだなら安全パイだと思って近づいたらいい。無防備に近寄ってアフリカツノガエルに食われちゃうネズミみたいに、私に無防備に近づいたら足の裏をさわっちゃうからね(なぜ足の裏かというと、肉球がぽよぽよしてて気持ちがいいからである。若干、猫と人間を混同している)。あっ、だけど、ちゃんと「Darf ich?」(足の裏さわっていーい?)と断ってからさわるからね。当然である(今日の朝ドラでも、酔客がちゃんと「千代ちゃん、今日は手ぇにぎらしてーな」と断っていた)。もし、「Darf ich?」と断らないでさわった場合、「悪いのはこの手。私は無実」とは言えない。なぜなら「手」は私の一部=道具であるからだ。実は、昨日、間違ったことを書いた。洗濯は洗濯機でするから自分ではしてない、洗濯機にさせているんだと書いたが(「waschen」ではなく「waschen lassen」と書いたが)、洗濯機は私の道具である。道具を用いてわるさを働いた場合、道具を使った者が正犯になる(間接正犯)。因みに、これが人間だったら怒られるよなー、と思いながら、うちの猫の肉球を猫の承諾なしにさわっている。猫らは、本当は肉球をさわられるのはあまり好きでないようだが、頭をなでてもらうのと交換条件だと分かっているので、じっと耐えている。それから、今日の記事のために、件の財布の写真を撮ろうと思って奥から引っ張り出してきたら何やら入っている。おおっ、ユーロだ!かなりある!旅行にいったときの使い残しだろうがいつのときのものだろう。

間男が歌う「土間の皿」

2021-01-05 10:23:06 | 言葉

部屋の中が乾燥している。これはいかん。ウィルスは喜ぶし、喉によくない。そうだ、洗濯をしよう!洗濯物を部屋干しすると、てきめんに湿度計の目盛りが上がる。この時期、乾きだって外より早い。ということで、以前は週一でしていた洗濯を2,3日に一度するようにして、家のあちこちに洗濯物を吊している。おっと、「洗濯をする」は正確ではなかった。洗濯をするのは洗濯機である。(洗濯機に)「洗濯をさせる」が正確である。ドイツ語で言えば、「waschen」ではなく「waschen lassen」である。これで、乾燥は防げるし、衣類はいっそう清潔に保たれるが効用はそれだけではない。洗濯物の汚れを落ちるのを見ていると、わが煩悩が洗い流される、そんな可能性を感じるのである。そもそも私の煩悩には歴史がある。中学1年のときから愛唱歌が「リゴレット」の第1幕でマントヴァ公爵が歌う「あれかこれか」であった。♪いずれーのー、うるわしきー女性(にょしょう)ーにもー、ときめーくー、わしがここーろー……こんな歌を当時から歌っていて形成された私の人格は推して知るべしである。しかも、中間部分は「ていしゅーがー、くやーしーがろーうとー、おとこーが、やこぉぉと(はっはっはっ)ままーよー」。だからか。昨夜私が見た夢は間男(まおとこ)になる夢であった。因みに、この日本語訳は、中1のときに買ったリゴレットのLPのおまけについていたヴォーカルスコアの日本語訳である。原語のイタリア語と併記されていた。惜しい。もし、イタリア語で歌っていたら、今頃イタリア語でひとかどの人間になっていたかもしれぬ。だが、ところどころはイタリア語で歌っていた。第3幕の「女心の歌」は全部イタリア語で歌っていたし、上記の「あれかこれか」もところどころイタリア語が頭に残っている。だが意味なんて考えていなかった。例えば、「doman lo sarà.」(明日はどうのこうの)は「土間の皿」という具合である。

三が日の夕食事情

2021-01-04 10:40:14 | グルメ


写真のピザは昨日(つまり3日)のもの。二つの皿は同じもので、角度を45度ずらした写真である。因みに、「人生が360度変わっていた」と言うと、変わらなかった(元に戻る)ことになる。全然違うものになったと言いたいときは「180度」と言うべきだが、「90度」だとどのように変わるのだろうか。なお、今回のピザは、「90度」でも元に戻る。因みに、この左右の絵柄であるが、私などは「十字架と罰点」を思い浮かべたが、他に「足す」と「掛ける」を連想する人もいるだろうし、路地の交叉に見える人もいるかもしれない。

2日は、だから昨日の記事に書いたように、井の頭五郎に影響されて和食にした日である。



大晦日のスーパーの閉店時に半額で売っていたブリを照り焼きにし、同じく半額だった塩タラをホイール焼きにしたものである。照り焼きのタレは、鰻の蒲焼きのタレで余ったのをずっと冷蔵庫に入れておいたやつ。冷蔵庫がどんどん空になっていく。

そして、元旦は、ヴィーナー・シュニッツェル……あるいは、トマトソースを端にたらしたからミラノ風カツレツか。



いずれにせよ、中身は豚である。ホントは仔牛肉を使うのだが(こないだ誕生日に行ったオーストリア・レストランのは子牛肉だった)、正直に言うと豚の方が慣れちゃってる。しかも、自分が作る味に慣れちゃってる。付け合わせはマッシュポテト。これも井の頭五郎の影響である。他に?他はない。色がたった二色である(よーく見ればソースの赤がちょびっとあるが)。緑黄色野菜の付け合わせがあればよかったのだが、このところずっと安かった野菜が年末に来て急に高くなった。買うものか。年始に青物野菜を食べなくても死にゃぁしまい。

ということで、今日は4日。野菜たっぷりの朝ラーメンの味がいつもより薄く感じる。すわ一大事、コロナか?いや、ソースを入れるのを忘れていたんだった。それでも、野菜からこの程度まで味が出るんだな。これだけでもいこうと思えばいける味だ。

井の頭五郎が行った海辺のドイツ・レストラン

2021-01-03 21:19:05 | グルメ

ミサソレ杯の1週間前追い切り。併せ馬は使わず単騎で。掛からなければ距離は持ちそうである(音楽友達への通訳。ミサソレ通唱会の1週間前の個人練習。一人で。長い曲だが配分をうまくやればスタミナは持ちそうである)。さて。稲垣のゴローと言えば、私にとっては朝ドラ「青春家族」の清水美沙の弟役(当時中学生くらい?)。ウルトラQのゴローと言えば「五郎とゴロー」の回に出てきた猿の怪獣。オペラのゴローと言えば、「蝶々夫人」の出てくる結婚周旋屋(今でいう結婚紹介業である。これも法的にはれっきとした商人である)。そして、井の頭五郎と言えば、「孤独のグルメ」の主人公。仕事の合間に入る食べ物屋で食レポを黙々とする。「食レポを黙々」とは奇異だが、要は感想はすべて心中で語る、ということである。五郎が入る店は多くがその辺にあるような定食屋。しかし、五郎の食べっぷりはなんとも旨そうである。演じてるのは松重豊さん。私にとっては「ちりとてちん」のお父ちゃん。因みに、松重豊さん同様強面のバイプレーヤーで有名な遠藤憲一さんは「てっぱん」のお父ちゃんである。元旦に何時間も再放送してたのを録画して空いてる時間にちびりちびり見てすっかりはまったせいか、普段作らないカボチャの煮付けなどを作ってしまった。
堅いカボチャを切るには楊枝で穴を開けてそこに包丁を差し込んでテコの原理でやれば切れるというネット情報は本当であった。

ところで、五郎さんが行く店は実在する店なのだが、湘南のドイツ・レストランはちょうど1年前に行った店。番組エンディングでホントの従業員が映るのだが、そこで映ったドイツ人マダムはまさにあのマダムである。最初はちょっとツンデレだったが(ドラマでかたせ梨乃さんが演じた感じそのまま)、帰る頃には「Sie müssen wiederkommen」(あなたはまた来なければいけない)と言ってくれた。うん、また行きたいなー。

美女の枢軸

2021-01-02 21:47:33 | 音楽
それと、ウィーン・フィルの団員がびじょ、びじょ、びじょ、びじょ、美女だらけでびっくり(この美女だらけぶりは私の周りにもひけをとらない)。思えば半世紀前、ウィーン・フィルとベルリン・フィルは女人禁制だった。カラヤンが長年に渡って蜜月関係を築いてきたベルリン・フィルといったん決裂したのもカラヤンがザビーネ・マイヤーという女性クラリネット奏者を入団させようとしたのがきっかけだった。マイヤーは結局入団せず、ベルリン・フィルの女性奏者第1号は事件の翌年入団したヴァイオリンのマデレーヌ・カルッツォとなったのだが。それでも、ウィーン・フィルの門戸は重かった。なーんて言ってたと思ったら、いつのまにかウィーン・フィルは美女だらけ。「今は昔」である。今回、テレビ画面で見ていて、ヴァイオリンからピッコロ、そしてクラリネットに至るラインに「美女の枢軸」があった。そう、ベルリン・フィルがクラリネットのマイヤーの入団でもめてたときも頑として門戸を開放しなかったウィーン・フィルがいつの間にかクラリネットに美女を迎えていたのである。そう言えば、ジョン・ウィリアムズを指揮に迎えてスターウォーズを演奏したのもウィーン・フィルである。この改革の精神に心をこめてブラヴォーを捧げたい。いやいや、美女美女と言って男は喜んでいる場合ではない。もはや、男性奏者もイケメンでなければ用なしである。門戸を閉ざしていた頃のベルリン・フィルは野武士集団であった。特に管楽器奏者は皆落ち武者風であった。だが、いつの間にかイケメンだらけになった。クラリネットのオッテンザマーなどは、モデルがコートをひっかけるようにクラリネットをかつぎ、ジーパンを着こなしている。因みに、私が子供の頃のウィーン・フィルのクラリネットの主席はアルフレード・プリンツ。髭をはやしたおじいさん風。そのプリンツの見守る中でソロを吹いていたのが若きペーター・シュミードル。私はこの人の音が大好きだった。ルックスも、イケメンとは違うがどんぐり眼のファニーフェイスで、それまでの野武士風とは一線を画してした。なんでも、積極的な日本のおばさまたちの中にはシュミードルのおっかけもいたという。そのシュミードルもいまや「元団員」。私が浦島太郎になるわけである。因みに、「ベルリン・フィルの落ち武者」と言った場合に私が思い浮かべているのは名手カール・ライスターである。この人の音は正直、今でもCDで聴いて大喜びする音ではないのだが、実演を間近でみたときはまさに神様であった。カラヤン&ベルリン・フィルの生演奏に接したときのことである。

弾きながら「わっはっは」(ワハハ本舗ではない)

2021-01-02 10:52:03 | 音楽
元旦恒例のウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートを見たらなんと指揮者がムーティ!言わずと知れた昭和(?)の名指揮者、大御所中の大御所、残された最後の巨匠である。芦田愛菜に「見えない~」と言われて梅沢富美男が鼻の下を伸ばすCMがあるが、ムーティこそ80歳には見えない。そりゃー、90歳で現役の指揮者はいる。しかし、ムーティは指揮台の上で弾んでいる。そのテンポにも驚く。多くの指揮者は80台になるとテンポが遅くなる。ベームはスロー・テンポの代表のように言われたが、あれは最晩年に日本でブレイクしたからで、若い頃のベームのテンポは快速だった。逆に快速の代表のように言われたカラヤンは、80台になってベームよりゆっくりになった(途中で止まりそうになった)。しかし、ムーティのテンポは昔のまま、いきいきと速い(まさに「アレグロ」である)。いい男ぶりも相変わらず(ナポリ人らしい黒髪)。クライバーが日本でブレイクしたときも、女性ファンだけの比率で言ったらムーティ票の方が上回ったのではないか。私も好きな指揮者である。心に残る生演奏は二つ。一つはスカラ座の日本公演で振った「カプレーティとモンテッキ」(ベッリーニ)。第1幕のエンディングは私の最高のオペラ体験の五指に入る。もう一つは意外かもしれないがフィラデルフィア管の日本公演で聴いたエロイカ。そのすっきりくっきりなベートーヴェンが新鮮ですぐにCDの全集を買ったものだ。さて、今回の演奏のことである。無観客なので、青きドナウのイントロで拍手が起きて指揮者がいったんやめて挨拶をしてからやり直すだとか、ラデツキー行進曲で聴衆が拍手で参加するだとかの慣習はなし。しかし、純粋に音楽を楽しめて、とてもよい演奏会だった(その点、今回の紅白と通じる)。「憂いもなく」(Ohne Sorgen!)というポルカが選曲されたのはこのご時世だからこそか。ところで、この曲についてNHKのスタジオの解説の人が「団員が弾きながら『わっはっは』と声を出して笑う」と言ったとき、私が即座に思い出したのは、「わっはっは」と体をゆするカラヤンの姿である。そう、カラヤンが唯一ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートを振ったとき(1987年)、やはりこの曲を演奏したのだ。その様子は後から録画で見た。「わっはっは」は今回のムーティより断然カラヤンの方がいい。「録画で見た」って、じゃあその時どこにいたのかと言うとウィーンである。旅行で行っていた。楽友協会のホールにも行ったが外から見ただけ。チケットは10万円だった。添乗員のお兄さんがマニアで、ちゃっかり聴きに行って、次の日興奮さめやらずの風情で私に自慢しまくった。私は、当時、アンチ・カラヤンで、カラヤンごときに10万円も出してたまるかと思っていたからちっとも羨ましくなかった。実演を聴いてコロっとカラヤン信者になったのは1年半後である。すると、あのとき10万円だしても聴きにいくべきだったと大層悔やまれた。でも、もし行ってたら飲み会の締めは毎回この話になり友達を閉口させたかもしれない。そろそろあの話が始まるから帰ろうぜ、と言って私一人が取り残されたかもしれない。するとテーブルを歩く蟻にカラヤンはね、と言っていたかもしれない。だから行かないでよかった(と強がり)。

紅白~田園

2021-01-01 20:53:39 | 音楽

紅白の話に戻る。女性陣はパワフルな歌だけではない。坂本冬美の歌詞はエロかったし、パフュームも全然変わらない。10年以上前、笑っていいとものテレフォンショッキングに出てきて、タモリさんが一緒になって「かしゆかです!あーちゃんです!のっちです!タモリです!4人合わせてパフュームです!」って挨拶をしたときからのファンである。別のトーク番組で明石家さんまがパフュームに「いつまでやるんや?ずっとこのままってわけにはいかんやろ」なんて言ったときは、私はずっとやってどこが悪いと憤慨したものだが、全然変わらない様子を見て、50,60になっても「パフュームです!」を続けてほしいと切に願う次第である(そのとき私はいくつだ?)。いや、男だってがんばった。ユーミンの歌にサプライズで参加した「スモール3」(岡村隆史、爆笑田中、出川哲朗)はかっこよかった。辛い過去もあったろうに今や紅白歌手でユーミンと競演である。田中さんの奥さん(もえさん)は、お子さん達に、テレビ画面の田中さんを指さして、「あれがパパだよ」とか言ってるんだろうか。その直後に登場したのは玉置浩二。え?伴奏のオケの奏でるメロディー、めちゃ速いが「田園」じゃんと思ったら曲名が田園だった!たしか「元妻」の一人が薬師丸ひろ子さんでしたねぇ。最近また仲良くされてるようで。バツイチの私としては、バツイチマルニの男性はめちゃ憧れるが(人生の師として仰ぎたい)、この方くらいたくさんいらっしゃるとジェラシーが先にたって師とは仰ぎたくない。いやいや、人生の勇気をいただいた紅白でありました。中国で餃子を食べるのって新年だっけ。写真の餃子は大晦日に紅白を見ながら食したもの。バジルを効かせた西洋風。たれはバルサミコソース。でも、端が焦げた。ビタクラフトのフライパンもそろそろ寿命か。とか理屈をつけて、ダイヤモンドコーティングのフライパンを買う口実にしようとする私である。投稿には時差がある。いま、やってるのはムーティ指揮のウィーンフィルのニューイヤー・コンサート。明日も書くことたくさんあるわー。

紅白~運命

2021-01-01 09:30:23 | 音楽
以前、暮れの紅白はなるべく見るようにしていた。普段聞かないJ-Popの情報をにわかに収集しようという魂胆である。それなりに楽しめた。「マツケンサンバ2」でわくわくしたし、「トイレの神様」で泣いたし、あまちゃんの「実質最終回」は感動した。だが、昔の話だ。マツケンは16年前、トイレは10年前、あまちゃんは7年前だ。このところ、ずっとつまらなかった。だから今年は見るもんかと思った。ところが、7時のニュースの後、始まった紅白に、チャンネルを替えようと思ったらチコちゃんが出てる。じゃ、ちょっとだけ見てみようかと思ったら、最後まで見てしまった。次々と登場するパワフルな女性歌手に圧倒された。結果はダブルスコアをつけて紅組の勝ち。有馬記念でクロノジェネシスが優勝して「牝馬の年」を締めくくった競馬界と同様、歌謡界も牝系が優位なんだなー。へんな演出とかがなく、ぱっぱっと歌手が入れ替わるのもよかった。歌の間の下手なコントほど興ざめなものはない。最悪だったのは半世紀くらい前だったか、村田武雄その他の演歌の大御所達を競馬の馬に見立てたコント。面白くもなんともなかったし、歌手も憮然としていた。今回、そういう余計なものはなかったが、唯一、曲が終わるたびに、歌手よりも大きな声で司会者が「ありがとーございましたーっ」とワンパターンで言うのは個人的に聞きたくなかった。もりあげよう、という意気込みだろうか。いい歌なら言われなくても盛り上がります。思いのほか感動して紅白を見終わった後はテレ東の「ジルベスター・コンサート」。今回のカウントダウンはベートーヴェンの運命の第4楽章。この日ばかりは、オケの奏者もカラフルなドレスを身にまとって舞台はきらびやか。しかし、カラフルな袖から突き出たたくましい腕が奏でる音は十分に力強い。牝系優位はここにも。素晴らしい演奏だった。残り1分になって、あれ、これ早く終わっちゃうんじゃない?そしたら去年みたいに、最後の音をずーっと伸ばせばいいね、第九だとそういうわけにはいかないけど、運命だったらできるもんね、そのための運命かな、と思ったら、微妙にリタルダンドして最後の音が鳴り止んだのはまさに年が変わる瞬間。その瞬間にいつも鳴ってた号砲が今年はなかったのはぴったり終わらなかったことを考えたのか。運命!そう、通唱会でもやりました。このご時世、通唱会でやれたのも意義のあることだった。皆様、改めまして、いろいろありがとうございました。今年もよろしくお願い申し上げます。