拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

飛ばなかったアトム(カール・ベームのこと(その1。でも、ベームの話はほとんどない))

2021-01-30 08:49:29 | 音楽
「ベームのこと」と銘打ったが、例によって山ほど四方山話に飛ぶから、あまりベームの話は出てこない。そのことをお断りしておく。昨日、生まれて初めて小遣いで買ったレコードはベームの第九だった、と書いた。全財産が900円だったから選択の余地はなかった、と書いた。しかし、これは記憶違いだった(なにしろ半世紀前である)。もう一つ900円の第九があった。コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管である。もちろん、当時、ベームもコンヴィチュニーも知る由がない。ベーム盤を選んだ理由はジャケットだった。コンヴィチュニー盤はレコードを入れるだけの簡素なものだったのに対し、ベーム盤は見開きだった(そこに、Uがありったけのカラヤンの悪口を書いていたわけだ)。もう一つ記憶違いがある。昨日の記事だと、家がステレオを買ってからベームの第九を買ったように読めるが、順番は逆である。家で聴けるあてがないのに買ったのである。だが、買ったら聴きたくなるのが人情。クラスメイトが家に立派なステレオがあるからそれでかけてやると言ってくれたので出かけて行った。ところが彼の兄が「使わせない」と言う。別にポータブルのプレーヤーがあって、そっちをお情けで使わせてもらった。ところが、そのプレーヤーのレコード針がぼろぼろ。針飛びの嵐だった。それどころか、そんな針で再生したから一発で盤がボロボロになり、その後、私んちがステレオを買って再生したときは、第四楽章のソロと合唱が出るあたりで三箇所に針飛びがあり、せっかくステレオが来たというのにしばらく第九の全貌が分からず仕舞だった。待ちきれなくて墓穴を掘ったといえばこういう話もあった。私の誕生日はクリスマスと近いので、プレゼントは併せて一つだった。で、初めてクリスマスだか誕生日だかのプレゼントをもらったときのこと、親は、「サンタクロースなんていないんだからね。親が買ってやるんだからね。感謝しなさい」(ひどい親のように見えるが、今の朝ドラの「てつおテルヲ」に比べれば買ってくれるだけ神様である)と言い、その年は「回るアトム」を買ってやると予告した。私は、「回るアトム」から、「自転」するアトム、つまり、地中にもぐるときのスーパーマン、これじゃ分からないか、フィギュアスケートのスピンを想像したが、当日目にしたのは、天井からひもでつるしたアトムの脚のプロペラが回って「公転」するアトムであった(「ジェット気流」を作り出すマグマ大使のごとしであった)。母が買ってきたのだろう、父が「ちゃちいなー」と言ったのを覚えている。だが、その日は既に夜。飛ばすのは明日におあずけ。嗚呼!その夜、飛ばしていれば!私は、プレゼントをもらったのが初めてだったこともあり、うれしくて、待ちきれなくて、そのアトムを抱いて寝た。翌朝見たらプロペラが割れていた。「ちゃちい」と言った父の言は正しかった。アトムは、結局、我が家では一度も飛ばなかった。それで懲りたのか、翌年からのプレゼントは決して壊れないもの=ハードカバーの児童書だった。たしか、最初が「紅はこべの冒険」、翌年が「偉大なる王」だった(王選手の偉人伝ではない。「ワン」というトラの物語である)。母の選択であったが、今にして思えばなかなかしぶい選書である。第九の話に戻る。後で知ったことだが、選択しなかったコンヴィチュニー盤のバリトン・ソロは、なんと、てっ、てっ、テオ・アダムだ(山梨の人はびっくりすると「てっ」という。中央線のどっかの駅に大きく「てっ」と書いた看板がある。しかし、今書いた「てっ」はその意味でないことはお分かりだろう)。硬質な声で、スタイリッシュに歌うバリトン独唱は絶品である。それだけではない。ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はいぶし銀である。指揮も、ときどき見栄をはるけれど、一本気な正攻法のまっすぐな解釈で(まるで私!)、今なら断然こっちである。ベーム盤のウィーン交響楽団(ウィーン・フィルではない)は優秀なオケだが、その演奏は、今聴いてみると、リズムは甘いし、バリトン独唱はなよなよしていて良くない。だが、なにしろ(三箇所針飛びはしたけれど)初めて手にした全曲盤だ。鳥が生まれて最初に見た生き物を自分の親だと思うごとく、私にとっての第九のスタンダートはベームとなった。その後、信仰はますます深まり、後に洗脳が解ける時期がくる。その話は次回以降に(ねっ!ベームの話はあまりなかったでしょ?)