今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

426 バチカン =2=(バチカン市国)

2012-02-23 17:51:31 | 海外
システィーナ礼拝堂の天井画が堪能できると勇んで出かけたのだけれど、たどり着くまでに名画の洪水を潜り抜けて来たことに疲れ果て、そのうえ礼拝堂は、大盛況の立食パーティー会場のような人の群れであったから、私たちはしばし隅のベンチに座り込み、そこから天井画を見上げた。その中央には確かに、アダムに命を吹き込もうとする神が人差し指を延ばしているのだけれど、指と指は触れようとしてなお、触れていないのだった。

        

ミケランジェロが描き終えたのは1512年だというから、日本では室町幕府の凋落が始まり、各地で群雄が割拠し始めたころだ。私たちはちょうどその500年後にイタリア・ルネッサンスの最高のエネルギーに対面していることになる。子供のころに観た映画『ベン・ハー』で、この指の部分がじりじりとアップされていくタイトルバックに、凄い絵があると身震いして以来の念願の対面だったのだが、天井は余りに高く、細部はよく見えなかった。

        

聖書の世界に深く帰依する人たちにとっては、描かれた場面の一つ一つに重い意味を見出すのだろうが、私にはそこまでの知識はなく、ただただ呆然と見上げるだけだった。とはいえ祭壇壁の『最後の審判』とともに、ミケランジェロの腕力によってか、カトリック社会に内在する強烈な意思が押し寄せて来るような思いになった。そして礼拝堂全体を埋め尽くす絵の過剰な響きに、それ以上留まっている気力はなくなったのだった。

        

バチカン美術館の収蔵品が、どのようにして集められたものであるかは知らないけれど、その膨大な量はすでに「展示」などという範疇を超えている。たとえ美に造詣の深い枢機卿たちであったにしても、その収集・寄進の意思がいかなるものであったか、すでに訳が分からなくなっているのではないか。それほどに美を詰め込み、閉じ込めておくことに困惑しているのだろうと、余計な心配をさせられるほどである。

        

ただシスティーナ礼拝堂を除き、カメラ撮影は自由であることはうれしい驚きだった。だからラファエロの間で『アテネの学堂』を吾がカメラに収めることができた。サン・ピエトロ大聖堂にしても、必要に応じて参観者の入場をストップするのだろうが、撮影は自由だったから、恐れ多くもミケランジェロのピエタ像をマイ・コレクションに加えることができた。美術館や博物館における個人の写真撮影はどうあるべきか、私は興味を持っている。

        

バルセロナではサグラダ・ファミリアの内部撮影は自由であったが、ミロ美術館は禁じていた。ローマもおおむね撮影には寛容であるように感じられた。フラッシュを焚いたり三脚を立てたりすることは、他の入館者に迷惑をかけるから禁止することは当然だし、個人的撮影に関心のない人にとっては、シャッター音も耳障りだろう。しかし素晴らしい作品や造形を見つけた時、写真に収めていつでも眺められるというのはうれしいことだ。

        

近年、日本でも撮影を認める施設が増えて来たように感じる。光が作品を劣化させる恐れがある場合や、出品者が撮影を拒否する場合は致し方ないが、ルールの範囲内で撮影を認めることは、美術への親しみを増す効果があるのではないだろうか。たいした収蔵品もない施設が大仰に禁止の張り紙を出していたりすると、展示することで何を目指しているのか、聞いてみたくなる。バチカンの大らかさを見習ったらどうだろう。(2011.12.23,24.)

        












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