今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

425 出雲崎(新潟県)子供らと手鞠つきつつ佐渡が島

2012-02-22 20:53:02 | 新潟・長野
松尾芭蕉が出雲崎に立ち寄ってから69年を経た1758年、この天領湊町の名主、橘屋に長男が生まれた。後の良寛である。越後はこの僧一人が生きてくれたおかげで、歴史に潤いを満たすことができたと、私は考えている。その良寛はいま、生家跡に建てられた堂の前で、日本海を眺めている。「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆる佐渡のしまなり」と、母の生地である佐渡ヶ島に思いを馳せる歌を口ずさみながら。

        

野積から出雲崎へ、芭蕉と曾良が越後の夏の蒸し暑さに汗まみれになったであろう北国道を、私は友人の車の助手席で楽々と移動した。その際に渡った大河津分水は、もちろん芭蕉のころにはない。芭蕉が通り、良寛が生まれる前の僅かな時代に、越後農民の悲願として開削が請願された。しかし江戸の幕府は腰が重く、続く明治政府も躊躇して、恐ろしい信濃川の水量をコントロールできるようになったのは、昭和に入ってのことだった。

        

寺泊を経て出雲崎に差し掛かると、街道を見下ろして神社が建つ。街への結界であろうか。家並は湊町というより宿場町といった風情で、海と山に挟まれた狭い平坦部を延びていく。黒い屋根瓦の切り妻が街道に連なり、佐渡金山への物資・人足の送り出し湊であったこの街の、かつて人いきれを偲ばせる。石油産業発祥の地でもあるそうだが、賑わいは遠くなった。農業も漁業も就業者は減少し、人口は5000人を割りかねない状況だ。

        

幕府財政をまかなう「金」の荷揚げ湊という、特異な役割りを帯びていた出雲崎は、封建社会経済の矛盾と非情を交錯させていたことであろう。山本栄蔵(良寛)は、そうした街で名主としての差配に勤めなければならない宿命にあった。そのことが、彼を出家に奔らせた要因であったとは、多くの研究書が記していることだ。そうであったのだろうが、それだけではあるまい。その知性を縛るには、街が余りに狭隘であったのだろう。

        

裏山の急坂を登ると良寛記念館があって、その書を堪能することができる。良寛自身はこのようなりっぱな収蔵庫を望んでいたとは考えられないが、後に生きる多くの人々が、こうやって静かにその記憶に接する場を欲したのだろう。庭に出ると街の家並と港、そして白波を寄せる日本海が一望される。水平線が地球のまるいことを実感させ、そのほぼ中央にあるはずの佐渡島は雲に隠れている。湧き出ずる雲は、まさに出雲崎である。

        

良寛の墓は、旧和島村の隆泉寺にある。良寛が独居した国上山の五合庵から南方の里で、出雲崎からはやや内陸になる。晩年の良寛が子供らと手鞠をつき、貞心尼を待った里である。小さな集落にしてはりっぱな山門を構えた寺で、境内では今も里の子らが元気に戯れ、良寛さんが現れたら遊んで欲しいとせがんできそうだ。しかしその墓所は、立派な墓石がしつらえられているとはいえ、背後に民家の洗濯物が翻っていささか侘しい。

        

「この里の桃のさかりにきてみれば流れにうつる花のくれなゐ」。良寛は親交を結んだ有願和尚を訪ね、この歌を詠んだ。だから「この里」は西蒲原の中之口村であり、「流れ」は信濃川の分流・中之口川ということになる。それが有願晩年の時期だとすれば、良寛が花を楽しんだその日から200年ほど経た桃の花のころ、中之口村打越で元気な男の子が生まれた。育つにつれてハツメな才を発揮した、この私のことである。(2006.3.17)

        




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