19世紀フランスの作家・フロベールが「神々はもはや無く、キリストはいまだ出現せず、人間が一人で立っていたまたとない時間」について書いているそうだ。原典の書簡集を確認したわけではないので、以下の解釈は私の大いなる誤解かもしれないのだが、その「またとない時間」は「キケロからマルクス・アウレリウスまで存在した」と定義付けられているから、帝政ローマ期の紀元前後2世紀ほどの間を指していることになる。
人々の心理から神の存在に対する恐れが薄れ、しかしまだ崇めるべき救世主を戴くことができないでいた信仰空白の時代が、キケロ(共和制ローマの政治家=BC106-BC43)からマルクス・アウレリウス(第16代ローマ皇帝=AD121-180)に至る、人類がいまより遥かに無垢であった古代に存在したと言われると、それはどのような社会であろうかと何やら恐ろしさを覚える。精神を支えるだけの丈夫な柱がない社会の心細さだ。
私などは神を信ぜず、仏に縋ることもなく生きているつもりだから、神もキリストも不在で結構であるはずなのだけれど、社会のどこにもそうした支柱がないとすると、矛盾しているけれど不安になる。しかしフロベールはそれを「またとない時間」であったという。なぜか。その表現には、西欧の社会に染み込んだキリスト教が、人々の精神を束縛し、社会構造から文化までを影響下に置いていることに反発し、告発しているような響きがある。
確かに、帝政ローマのコンスタンティヌス帝がキリスト教を受け入れたAD313年以降、西欧社会はイエス・キリストを精神支柱として構築され、世界の文明を牽引して来た。その勢力は増幅し、もはや人類が生存する限りキリストが人々の精神から去る日は来ないように思われる。だからフロベールは、わずかに古代ローマのその時代だけが、人間が神にも救世主にも拘束されず「一人で立っていた」希有の期間であったというのだろう。
その時代、人間は神を頼ることなく「一人で立っていた」。そうした独立不覊の意識は、なぜ長くは続かなかったのだろう。宗教がなければ十字軍の必要はなく、異教徒弾圧も起きず、現代社会が解決できないでいる西欧とイスラムの対立も生まれていないことになる。宗教が人間社会に与えて来たのは、大いなる救いとともに災難でもあった。しかし宗教が生まれること、人々の心を捕えることは、これまた人類の必然なのだろう。
個で生きることのできない人間は、自然を超えた大きな意思の存在を信ずることで、初めて自己の安心を見出すことができる動物なのだ。穴居生活からムラへと集団の力を高めた者たちは、リーダーを戴いて他のムラを支配しようと戦を始める。勝ち残った集団がクニを創り、組織を維持するためにリーダーの血を信仰の対象として天帝と名付けたりする。人々は「一人で立つ」ことを放棄し、組織と宗教に支配される状況に安住を見出す。
ローマのパンテオンやサンタンジェロ城は、その「またとない時間」に着工された。その創建には、古い神々が去った後の新たな神を創造しようとする意思が隠されていたのではないか。AD118年に再建されたパンテオンの巨大なドームは、圧倒的な存在感でそこに坐り続けて来たのであろうが、入り組んだ路地をようやくたどり着けるような場所にあった。降り出した雨が、ドーム天上の眼窓から床を濡らした。(2011.12.22-27)
人々の心理から神の存在に対する恐れが薄れ、しかしまだ崇めるべき救世主を戴くことができないでいた信仰空白の時代が、キケロ(共和制ローマの政治家=BC106-BC43)からマルクス・アウレリウス(第16代ローマ皇帝=AD121-180)に至る、人類がいまより遥かに無垢であった古代に存在したと言われると、それはどのような社会であろうかと何やら恐ろしさを覚える。精神を支えるだけの丈夫な柱がない社会の心細さだ。
私などは神を信ぜず、仏に縋ることもなく生きているつもりだから、神もキリストも不在で結構であるはずなのだけれど、社会のどこにもそうした支柱がないとすると、矛盾しているけれど不安になる。しかしフロベールはそれを「またとない時間」であったという。なぜか。その表現には、西欧の社会に染み込んだキリスト教が、人々の精神を束縛し、社会構造から文化までを影響下に置いていることに反発し、告発しているような響きがある。
確かに、帝政ローマのコンスタンティヌス帝がキリスト教を受け入れたAD313年以降、西欧社会はイエス・キリストを精神支柱として構築され、世界の文明を牽引して来た。その勢力は増幅し、もはや人類が生存する限りキリストが人々の精神から去る日は来ないように思われる。だからフロベールは、わずかに古代ローマのその時代だけが、人間が神にも救世主にも拘束されず「一人で立っていた」希有の期間であったというのだろう。
その時代、人間は神を頼ることなく「一人で立っていた」。そうした独立不覊の意識は、なぜ長くは続かなかったのだろう。宗教がなければ十字軍の必要はなく、異教徒弾圧も起きず、現代社会が解決できないでいる西欧とイスラムの対立も生まれていないことになる。宗教が人間社会に与えて来たのは、大いなる救いとともに災難でもあった。しかし宗教が生まれること、人々の心を捕えることは、これまた人類の必然なのだろう。
個で生きることのできない人間は、自然を超えた大きな意思の存在を信ずることで、初めて自己の安心を見出すことができる動物なのだ。穴居生活からムラへと集団の力を高めた者たちは、リーダーを戴いて他のムラを支配しようと戦を始める。勝ち残った集団がクニを創り、組織を維持するためにリーダーの血を信仰の対象として天帝と名付けたりする。人々は「一人で立つ」ことを放棄し、組織と宗教に支配される状況に安住を見出す。
ローマのパンテオンやサンタンジェロ城は、その「またとない時間」に着工された。その創建には、古い神々が去った後の新たな神を創造しようとする意思が隠されていたのではないか。AD118年に再建されたパンテオンの巨大なドームは、圧倒的な存在感でそこに坐り続けて来たのであろうが、入り組んだ路地をようやくたどり着けるような場所にあった。降り出した雨が、ドーム天上の眼窓から床を濡らした。(2011.12.22-27)
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