今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

286 下妻(茨城県)・・・砂沼のほとりで夜雨の詩碑に逢う

2010-07-20 21:16:53 | 茨城・千葉

昔、横瀬夜雨(やう)という詩人がいた。明治11年(1878年)、旧常陸国の真壁郡横根村(現下妻市)に生まれ、昭和9年(1934年)に57歳の生涯を閉じるまで、自ら「筑波は近く富士は遠く、筑波の煙は紫に、富士の雪は白い」と詠って故郷を離れず、創作に取り組んだーー。これは「下妻市ふるさと博物館」で初めて接した知識である。下妻の街さえ知らなかった私に、作品どころかその名に触れた記憶もない詩人であった。

博物館に設けられた「夜雨記念室」で作品のいくつかに接して、大正ロマン期の叙情過剰な韻律が私にはついて行き難かった。むしろ散文の方が飾り気がなく、素直に読める。『やぶ蘭は子供の誰もがをかしがる。ひらくと、男の物、女の物の格好そつくりになるからだ。ぢぢばばと呼んでゐる。色がまた變なのだ。たちの惡い子供は、花と花とをおつつけ合つて、爺さん婆さんが寢てるんだとはやす。親達はめん喰ふ』。農村の生活が立ちのぼる。

幼くして脊椎を病み、夜雨は歩行さえ困難な肉体のハンディを背負う。それでも創作・投稿に取り組み、中央でも知られた存在になって行く。33歳の冬には信州・越後を旅し、作品を残した。『お才あれ見よ越後の国の/
雁が来たにとだまされて/

弥彦山から見た筑波根を/
今は麓で泣こうとは/

心細さに出て山見れば/
雪のかからぬ山は無い』。お才とは、私の故郷の西蒲原から、遠くこの常陸の農家へ奉公に出された娘なのだろうか。

知人もいなければ地縁もない私にとって、関東平野のど真ん中のような筑波山周辺のイメージは、茫漠たる寒風が吹き抜ける寒々とした大地である。しかし長く雪に閉ざされる越後の農家にしてみれば、雪がない限り筑波颪の村々も格好の出稼ぎ先だったのだろう。

下妻は東京から北へ60キロ程度の距離だというから、東京を起点に南に下ればせいぜい横須賀辺りだ。それなのに下妻は私には全く無縁の土地で、所在を問われて「茨城県」と答えられたかどうか。(私にとっては)そんな目立たない農村ながら、下妻の一角には文芸活動が日常としてあり、そしていま、創作に励んだ先人を顕彰する人たちが静かに暮らしている。そうした地域の営みを知ると、それだけで密度の濃い土地であるように感じる。

茨城の農村といえば長塚節だ。夜雨と節は遠縁にあたり、ともに文学に励んだようだ。そして下妻の西隣には古河という街がある。その古河から8里の道を通って夜雨に師事した女性がいた。若杉鳥子である。下妻からの帰路、古河に立ち寄ると文学館があった。人口が15万人にも満たない街が文学館を構えていることに驚いたが、古河にゆかりの文学者として、鳥子の資料も展示されていた。文芸活動を大切にする地域風土であろう。



還暦過ぎまで生きて来て、私は国内のあらかたは知り尽くしたような気分になっていたけれど、それはとんでもない思い違いだった。若いころから《文芸》に憧れてきた私としては、「ぶらりと北関東の旅に出たおかげでいい街々を知ることができた」ということになる。

下妻での2日目、砂沼のほとりで筑波山を遠望していると、散歩中の初老のご夫婦に出会った。無口なおじいさんに対しおばあさんは饒舌で、「ここの桜は素晴らしいの。桜が咲いたらまたいらっしゃい」というような意味のことをおっしゃった。見知らぬ相手に話しかけるにしてはいささかきつい命令調に聞こえたが、このあたりの言葉はそうした響きなのかもしれない。(2010.3.16-17)
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