紬の街から陶芸の里へ、旅は《手仕事》を堪能しながら続く。結城から国道50号を東に行くと、間もなく常総バイパスとクロスする大きな交差点に出た。そこから北に向かえば今夜の宿泊地・益子だ。途中、左手に望んだ街並みは真岡だったのだろう、常陸国の西端にいたわれわれは、再び下野国に入っている。結城から益子へ、存外に距離があって、さしもの関東平野も尽きたのか、しだいに丘陵へと誘い込まれ、日はいささか傾いた。
人間が、自分たちの生活をより快適にし、安全に生きる方策を見出して行くことを《文明の発展》と言うのだろう。発展にはさまざまな発見や発明、統治システムの改良といったものが寄与するのだろうが、《織物》が人体を快適に維持してくれる発明だとすれば、《土器》は栄養管理に画期的な貢献をもたらした発明品だった。
いったん発明された織物や土器は、それ以後の人間の暮らしになくてはならないものになって行くが、人はそれだけでは満足しない。改良を重ね、飽きることなく精緻で美しいものに仕上げて行く。結城で、気が遠くなるほどの手仕事を見せられたが、益子でもそうした出合いがあるだろう。土を捏ね、形にし、焼き上げる。土器造りのその工程は縄文以来、原理は同じだろうが、釉薬の発明や窯の改良は、3000年の知恵が結集している。
陶芸メッセなる施設で、浜田庄司を始めとした大家の作品に触れる。「大したものだ」とため息をつく。粘土で形を作り、釉薬で文様を描く、さほど複雑ではなさそうに見えるそうした作業で、なぜ大家は大家たる作品を産み出し、その域に達していない作家はそこまでの作品に留まってしまうのだろう。芸術に偶然はないのだと、人間の才能の奥深さに改めて畏敬を覚えるのだった。
しかし、である。大家も最初から大家であったわけではない。今は無名であっても、いずれ大家になるかもしれない作家が、益子の谷のどこかで窯を構えているはずなのだ。そうした才能の兆しを見出すことが産地を旅する楽しみに他ならず、軒を連ねる販売所をハシゴする。
こうした際に私はいつも不思議に思うことがある。それは「作家もの」といわれるそれなりの作品であっても、陳列棚にぎっしり並んだ商品の一つであると、その大方がつまらなく見えることである。もしその場から切り取って家に持ち帰れば、それはそれで光彩を放つのかもしれないのだが、店頭ではみんなイマイチに見えて所有欲を掻き立てるまでには至らないことが多いのだ。
そうした障壁をぶち抜いて目に飛び込んで来る作品がある場合、それこそが自分の欲していた物なのだろう。そこまで来れば、世俗の評価はどうでもいい。大家でなくとも、無名の若手でもいい。形が、色使いが、自分の何かに感応する作品があるものだ。そうした出会いこそが、自分にとって「いい作品」ということなのだ。そして価格を確かめ、折り合いがつけば手に入れる。そうやって何点かは失敗し、何点かの宝が部屋を飾っている。
陶芸作品以上に益子で目を奪われたのは、益子城跡の山際に立つサンシュユ(山茱萸)の大木だった。黄色の花を枝いっぱいに咲かせ、早春の日を浴びて満足げである。名声への野心などさらさらなく、見る者を黙って楽しませてくれる。宿は町営ロッジ。豪華ではないが十分に快適だった。天体観測ドームが併設されていたものの、あいにく夜は土砂降りになった。(2010.3.15-16)
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