琵琶湖の水が瀬田川に流れ落ちるあたりの湖上に、水の出を抑える「栓」のような水城が築かれた。草津と大津を繋ぐ東海道の大津寄りの湖岸で、その一帯を膳所(ぜぜ)という。街道は今も生活道路として生きており、「湖魚佃煮」を売る店が並んでいたりする。そんな街道筋に、壬申の乱で敗れた大友皇子を祀る神社があったり、木曽義仲と松尾芭蕉の墓が並び建つ寺が史跡指定を受けていたりする。何やら「死」が身近である。
「膳所」は天皇の食事を司どった役所「内膳司」に由来するとの説が有力らしいから、京の御所に向けて琵琶湖の魚介を水揚げする場であったのだろう。となれば「死」どころか、都の人々の「命」を支える食の供給基地であり、そうした土地の東海道には、元気な旅人が賑やかに往来していたに違いない。
だが私は二つの塚を前にして、人の死と《墓》について考え込んでしまったのである。中世の革命児と近世の俳聖が「背中合わせ」のように眠っているのは「義仲(ぎちゅう)寺」である。私が訪れたのは「時雨忌」の10日ほど前で、時雨の気配すらない晴天だった。
義仲は都を追われ、このあたりで討ち死にしたというのだから分かるとして、芭蕉の墓はなぜここにあるのか。不思議な組み合わせである。「骸は木曽塚に」との遺言に従った弟子らにより、芭蕉の遺骸は大阪から運ばれ、葬られたのだという。
私は芭蕉に詳しいわけではないから寺のパンフレットを頼ると、奥の細道の旅と前後して、翁は亡くなるまでの10年間、ずいぶんと足繁く「無明庵」を訪れ、逗留している。無明庵とは、芭蕉のころより450年ほど昔、義仲を弔うため巴御前が結んだ草庵で、この寺の前身のことだという。
芭蕉のころ、東海道は湖畔に沿っていて、義仲寺の門前は静かな湖面が広がっていたらしい。今はすっかり埋め立てられ、寺は家並みに埋もれた。芭蕉が好んだ景勝の地は、ホテルの無味乾燥なタワーが屹立する殺風景な場所になってしまった。
だが芭蕉は、景色のみでこの地を選んだわけではあるまい。「木曽塚に葬れ」というからには、義仲の生き様に深く感じるものがあったのだろう。伊賀上野に生まれ、各地を漂泊した芭蕉。信濃で決起し、わずか半年で将軍の座を追われた義仲。共通するところはないように思われる二人だが、人の心は不可思議なものである。「木曽の情雪や生(はえ)ぬく春の草」である。
《墓》とは何だろう。家累代の墓は、遺骨を処理するには便利な方便なのだろう、封建社会を終えて140年になろうというのに、現代人も死ねばこのしきたりの中に納まる。私がもし「骸は高野山に」とでも遺言したら、息子たちは「死んでまで手数をかける親父だ」と、まじめに取り合ってくれないかもしれない。
午前9時の開門を待って芭蕉の墓前に立つと、裏の幼稚園から賑やかな合唱が響いてきた。これなら翁はさびしくなかろうと勝手に安心したのだが、いささか情緒に欠ける。唐突だが越後の良寛様の墓所は、平野の中の小さな集落にあって、墓石の裏では民家の洗濯物が翻っていた。《墓》などどうでもいいのである。いっそ私は《散骨》を望む。(2007.10.31)
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