今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1123 利尻(北海道)どこまでも美しく聳え利尻山

2023-09-16 16:17:56 | 北海道
海上からも空の上からも、そして上陸して近くから眺めても飽きることがない。北海道最北の日本海に浮かぶ利尻山である。海の上に、整った形の円錐をそっと置いたような姿だ。鹿児島の開聞岳とよく似ているけれど、標高が倍近い利尻(1720m)は迫力が違う。山がすなわち利尻島で、ほぼ全域が利尻礼文サロベツ国立公園に含まれる。その雄大な山容は約30キロ離れたサロベツ原野からも望まれる。自然の造形力の何と偉大であることか。



利尻島の面積は182平方キロ。最北の海で「肩を寄せ合う」礼文島より100平方キロ大きい。東に利尻富士町、西に利尻町があり、8月末時点の島の総人口は2246世帯4106人だ。島の暮らしが最も賑やかだった1955年には、21259人の生活があった。お隣の礼文島の人口もこの年にピークアウトしている。1955年に何があったのか。恐らくニシンが姿を消したのだろう。繁栄から一転、68年間で人口は5分の1になってしまった。



二つの町にそれぞれフェリーが寄港する港があり、稚内や礼文島と結ばれている。また札幌まで50分で飛ぶ空港もある。ほぼ円形の島は、海岸に沿って1周する道路が整備されており、北の海沿いはススキたなびく原野が広がり、礼文水道を挟んで礼文島が近い。時折り溶岩の痕跡らしい岩場になって、ニシン漁の一時的な生簀で船溜りでもある「袋澗(ふくろま)」が白波に洗われている。漁最盛時の日々を偲ばせる北海道の産業遺産である。



島の周回道路から山側に入ると、緩やかな裾野を登ることになり、トドマツやエゾマツの林が始まって美しい緑の世界になる。そうした森の中に姫沼やオタトマリという名の沼が点在している。縄文時代の海進と海退で、4000年前ころに誕生した沼だという。利尻や礼文に縄文人が渡ってきたのはちょうどそのころである。青森の三内丸山遺跡や函館の垣ノ島遺跡などの縄文人たちが、気候変動を巧みに捉え、新天地にやって来たのだろうか。



ニシンが去った後、島を支えているのはウニと昆布と観光客だ。近年の実績を見ると、島の漁業はウニと昆布が双璧で、年間総水揚げは28億5000万円ほどになる。ニシンはもはや0.02%に過ぎない。役場作成の一覧表に「のな」とあるのは、この地方で呼ぶキタムラサキウニのことらしく、エゾバフンウニと分けて計上されているようだ。味が濃く澄んだ出汁が採れると珍重される利尻の昆布は、等級が厳しく検定されブランドが守られている。



人口の減少とともに島民にとって気がかりなのは、観光客の伸び悩みだろう。年間30万人近かった来島者が、このところ14万人を割り込んでいるのだ。礼文同様「花の島」とはいえ、そのシーズンは短い。利尻山は登山者ならずとも魅了される姿でそこに聳えているけれど、登山は上級者向けの厳しい名山らしい。ひところの離島ブームは去り、島には静けさが漂っている。温泉が実にいい。静寂の中で湯に浸る、観光客ならそれで満足できるのだが。



早朝、港近くの沓形岬公園を散歩する。島出身で利尻町名誉町民の作詞家・時雨音羽の碑が建っている。2ヶ月前、鮎を食べに行った埼玉・寄居町の料理旅館は『君恋し』の作曲者の旧宅だったが、音羽はその作詞者なのだった。いささかの縁を感じて調べてみると、音羽の父は佐渡から利尻へ渡って来た人だという。日本海を往き来する豊かな人生が浮かんで来る。山の頂近くの光は輝きを増し、朝日が顔を出すのは間も無くのようである。(2023.9.9-10)































(稚内から)

(稚内港から)

(稚内沖で)

(サロベツ原野から)

(サロベツ原野上空から)

(鹿児島・開聞岳)






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