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1124 サロベツ(北海道)湿原に花と小鳥と泥炭層

2023-09-19 10:07:21 | 北海道
サロベツ原野を少しだけ歩いてみる。環境省が「釧路湿原や尾瀬ヶ原とともに残る代表的な湿原だ」と強調する「利尻礼文サロベツ国立公園」の一角である。花の季節はほぼ終わり、木道を行きながらひたすら枯れ草を眺める。茫漠とした野の向こうに、遠く利尻山が裾を広げているのが僅かなアクセントだ。かつてアイヌの人たちが川で魚を獲り、内地からの入植者が酪農を夢見て土地を広げてきた遥か以前から、泥炭化する植物が積もる大地だ。



環境省のリーフレットは「サロベツ原野は北海道の北端、稚内市の南約40キロに位置する泥炭湿原で、その中心部の高層湿原など2560ヘクタールが条約湿地に登録されている」と説明している。だが湿原センターはサロベツ原野の面積を24000ヘクタール、湿原は6700ヘクタールで、日本で3番目に広い湿原だとしている。「原野」と「湿原」が混在し、さらに「高層湿原」といった専門用語が唐突に現れ、腹立たしいほど混乱して来る。



仕方がないから広辞苑を引くと、原野は「雑草・低木の生えている荒地で、自然のままの野原」を指し、湿原は「多湿・低温の土壌に発達した草原で、植物の枯死体の分解が阻止され、泥炭が堆積している」とある。また湿原センターが「特に貴重な」と誇る高層湿原は「貧栄養地帯にできる湿原で、高山や高緯度地方に多い」という。挙げ句の果ては「湿地の定義は定まっていない」のだそうで、腹立ち紛れに私は「湿った泥炭層の荒野」だと理解する。



サロベツ原野は豊富町から幌延町にかけて広がっている。ともに大規模な酪農が営まれている地域だ。「鬱蒼たる密林に覆われた人跡未踏の大地」だったという土地に明治30年代初期、幌延町に福井県から15戸が、豊富町には岐阜県の12戸が入植し、開拓が始まった。人が営みを拡大させるとは、原野が拓かれていくということだ。北海道には今も全国の8割を超す湿地帯があるけれど、大正時代と比べれば、すでに6割が消えている。



入植者の子孫たちは、サロベツの広大な未利用地を埋め立て、様々な工場を誘致する街づくりを考えたらしい。しかし思惑通りには進まず国立公園指定を受け入れた。単なる旅行者である私は、枯れ草の木道を歩きながら「数千年続いてきた自然の姿を、ありのまま伝える湿原が残されて良かった」と単純に感じているけれど、例えば戦後10年ほどして1万人を超えた人口が、3600人にまで減少している豊富町の場合、人々の思いは複雑だろう。



日本海につながる大きな潟湖だったサロベツ原野が、砂丘の発達で4000年ほど前には海と遮断され、湿原となったのだそうだ。また「4000年前」である。利尻島と礼文島に縄文人が痕跡を残し始めたのが4000年前の縄文時代中後期である。4000年前、列島に、いや地球に何が起きたのだろう。観測史上(と言ってもたかだか100年余のことだが)最も暑い夏だという今年、われわれは地球規模の大きな変動期に立ち入ったのだろうか。



原野を蛇行して流れるサロベツ川は、アイヌ語の「葦原にある川」の意味だという。支流のエベコロベツ川は「食物を持つ川」で、アイヌの人々が漁をしていた様子が知れる。北海道に限らないが、アイヌ語に由来する地名は多い。明治の入植・開拓・立村の過程で、よくぞ先住のアイヌの人々の呼称を生かしてくれたと私は思う。「日本は単一民族」などと気色の悪い表現に対し、重層的な民族・文化の歴史を生きていると思い出させてくれる。(2023.9.10)


















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