今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1129 岩内(北海道)寂しさを隠し抱いて時雨かな

2023-10-14 10:10:38 | 北海道
直行バスの「高速いわない号」でも札幌から2時間半と遠い。しかも予報は嵐が近づいているとしきりに警告している。それでも岩内に行きたい私は、早朝のバスに乗る。小樽を過ぎ、余市に着く前には海を離れ、原野のような樹林を行く。積丹半島を横断しているのだろう、遠く稲光りが暴れているものの、雨はまだ本降りではない。半島を西に抜けると平野が広がり、雨に濡れる岩内に着く。ニシン漁最盛時には、小樽を凌ぐ賑わいをみせた漁師街である。



バスターミナルは国鉄時代の岩内駅跡だ。40年ほど前にはここまで鉄路が延びていたのだ。5分も歩かず岸壁に出ると、港の対岸には泊原発の原子炉が並んでいる。日本海交易に適した岩内湊は、15世紀には和人の往来の記録が残り、江戸時代半ばに近江商人によって街が拓かれるという、北海道では古い歴史が堆積する街だ。そのうえニシン千石場所と謳われた活況が、全国から移住者を引き寄せ、重層的な気風を育んできた土地であるらしい。



ようやく岩内に行くとなって、何十年ぶりに有島武郎の『生まれ出づる悩み』を読み返した。主人公は漁師として厳しい労働の日々を過ごしながら、込み上げてくる「絵を描きたい」という熱情と折り合いをつけられず、もがき苦しむ青年だ。それは岩内に生まれ、漁撈に生き、絵を描き続けてこの街で死んだ木田金次郎(1893-1962)のことである。何が契機だったか金次郎の存在を知り、木田金次郎美術館に行くことが私の長年の宿題になっていた。

(30歳ころの木田金次郎。木田金次郎美術館の展示パネルから)

失礼ながら人口が1万人余の小さな街にしては、とても立派な美術館である。折しも金次郎生誕130年展が開催中で、誰もいない展示室で、激しくも暖かいタッチの作品をゆっくり見て回る。明治の末、札幌の有島の居宅を突然訪ねてきた「不機嫌そうな、口の重い、癇で背丈が伸び切らないといったような少年」が金次郎だった。『生まれ出づる悩み』によれば二人の交流は淡く、交感は実に深かった。我が人生で、これほどの邂逅はあっただろうか。

(有島武郎旧邸=札幌芸術の森)

洞爺丸事件で知られる1954年の台風15号で、岩内は焼け野原になる。金次郎が描き貯め、有島にも見せた作品やスケッチも、全て燃えた。漁師の絵描きは、ここからプロの画家に変身したのかもしれない。没するまでの8年間、「次はもっと上手く描く」と言い続けながら波を岩を港を山を描き続けた。美術館は「木田金次郎を源流として、岩内は現在に至るまで、途切れることなく絵描きが生まれている稀有な町です」と誇らしく言い切っている。



併催されている個展の若手作家は、岩内高校美術部出身だという。高校時代の作品「蓮」の連作は、描写力に呆然とさせられる。岩内絵画教室の幼児部作品展では、弾ける笑顔が並んでいる。そのどれもが実にいい。これらの児の中から次の絵描きが生まれるかもしれない。なるほど「稀有な町」である。旅の下調べで、お隣の共和町には西村計雄美術館、倶知安町には小川原脩美術館があることを知る。いずれも町出身の画家を記念する町立美術館だ。



各館は「しりべしミュージアムロード」として連携している。遠い北辺の寒村地帯と思い込んでいたけれど、なんと豊かな風土だろう。いよいよ本降りのようだ。パーカーのフードを引っ張り出して凛々しく被り、いざ雨中へと美術館を出ようとして呼び止められた。女性職員が「忘れ物で少し壊れていますが、お持ちください」と傘を差し出してくれる。年寄りが濡れ鼠になるのを哀れと思ったのだろう。「寂しさを隠し抱いて時雨かな」(2023.10.5)


(図版はいずれも木田金次郎美術館の図録より)
































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