今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

772 金沢(石川県)空広く晴れ晴れと明け城下町

2017-06-23 14:14:07 | 富山・石川・福井
「空が広い街ね」と一人が言うと、3人は天を仰いで「そうだねぇ」と頷いた。私たちは金沢の、金沢城公園を歩いている。往時の天守や御殿はすでに無く、わずかに復元された櫓と門が広場を縁取っているだけだからだろう、街の真ん中でこれほど空の広さを覚えることは珍しい。この街を「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」と詠むしかなかった室生犀星にとって、故郷の空は広く眩し過ぎたのかも知れない。



しばしば二組の老夫婦に間違われたが、私たちは夫婦ではない。中学の同級生なのである。時間に余裕が持てる年齢になって、時折り東京で小さな会合を楽しんでいるのだが、「私、金沢に行ったことがないの」と一人が言い出し、もう一人が「私は新潟に転校するまで、金沢で育ったのよ」と明かすに至って、唐突に「金沢に行こう」となったのである。私がおずおず「幹事役は?」と尋ねると、3人はサッと私を向いて横暴な多数決とした。



北陸新幹線が開業する前の、金沢がホテル建設ラッシュに沸いていた2008年、私はこの街をのんびり歩いている。その街が東京と新幹線で繋がって、変化が起きているだろうかと興味があった。そして改めて九谷焼の名品・新作に接してみたいという思惑もある。だから内心、幹事役を喜んで日程を組んだのである。兼六園は当然また行くことになるが、私にしてみればその途中で金沢21世紀美術館や伝統産業工芸館に寄る楽しみがある。



武家屋敷の雰囲気がよく残る長町から香林坊に出て、百万石通りを兼六園に向かうと、少女時代をこの街で過ごした元少女が「あぁ、少し思い出してきたわ」と言った。この通りを行く祭りの山車を、両親に連れられて眺めていたことが、「百万石」という通り名に触れて蘇ってきたらしい。「夏は花火見物をしました。あの桟敷はどこだったのかしら」と記憶を探っている。街路はマツや西洋カエデの緑が滴り、市中に響く瀬音が実に心地よい。



「いい街だね」と頷き合いながら、4人はそれぞれにこの街と、自分たちが育った新潟市を較べている。かつては江戸・大阪・京に次ぐ大城下町だった金沢に対し、新潟は港を中心に発達した商人街である。街の役割も、育まれた文化も異なる。ただ同じ北陸の、似た気候風土だという共通点はある。城跡と大名庭園を核にした金沢の風情は確かに素晴らしい。しかし川と海に恵まれた新潟の佇まいも捨て難いぞと、新潟っ子は言い張りたい。



ネットで「北陸3都」に関するレポートを見つけた。北陸地方整備局による金沢・富山・新潟3市の建築物の高さ規制導入の現況報告だ。全国に先駆けて景観条例を制定した金沢市は、建物の高さを規制する「高度地区」指定を導入し、伝統的区域の保全に努めている。持ち家率全国1の富山市も、高度地区指定を検討中らしい。新潟市は街のシンボルである信濃川河畔の景観を、建物の高さを50メートルまでとして守ろうとしている。



かくして3都とも広い空を確保することで、街に磨きをかけている。加賀門徒が拠点とした尾山御坊を前田家が城郭として整えた金沢城は、陸軍の司令部から大学のキャンパスへと使われ続け、石垣とこの広い空を残した。高層の石川県庁を中心に整備されつつある新しい街区を抜けて港に行くと、もっと空は広かった。昨今はそこに巨大なビルが出現したかのように、海外の観光客を満載したクルーズ船がやって来るという。(2017.6.11-13)








































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