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群馬県みどり市笠懸町阿左見というより、私には「上州新田郡笠懸村の‥」と言った方が分かりが良いのだが、「岩宿」という地名は旧阿左見村の小字名であったらしい。小さな村の小さな地名ではあるけれど、日本の考古学においては実に大きな存在である。1946年、相沢忠洋さんがその地の関東ローム層に埋もれた石器を発見したことで歴史が書き換えられ、この列島における旧石器時代人の生活が浮かび上がったのだから。
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もう50年になるから、様相が一変しているのは当然とは思うが、あの「岩宿の発見」現場はきれいに舗装され、切り通しの道路両側の遺跡A地点、B地点は石積みでしっかり保存されている。隣接地には市立の立派な博物館が建設され、広々とした遺跡公園が整備されている。赤城颪に曝される赤土の岩宿遺跡は思い出すことも困難だし、ましてや納豆を売る相沢青年が自転車で通りかかる姿を連想することも難しい。
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正確には1974年ごろだったと思う。私は相沢さんを、この遺跡地に近い自宅に何度か訪ねたことがある。道路に面して小さな庭がある、平屋の慎ましいお宅だったと記憶している。岩宿の発見者はすでに、時の人を経て伝説の存在になりつつあった。気さくな人柄の氏は、素人の私にも丁寧に、情熱を持って旧石器時代人の生活痕を追い続けていると語り、語り疲れて日が沈むと、趣味の横笛を披露してくれもした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/f2/45fa97f82a0ee315e167bf5c4c0ae236.jpg)
ある日、これから本格的に発掘に取り組むという夏井戸遺跡を案内すると連れ出され、山中の小屋に通された。質素ながら氏の大切な研究室のようで、看板には「赤城人類文化研究所」とあったように思う。そして内部の壁には、研究所長に始まって、県や村の文化関係の委員など、事細かな「肩書」までを記した木札が隙間なく掛けられていた。その数の多さに驚きながら、私は氏の寂しさに触れてしまったと思った。
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相沢氏を紹介する書物には、「研究者」の前に決まって「在野の」が付けられる。明け透けに言えば「学歴のない、素人の好事家に過ぎない」といった意味が冠せられるのだ。大学の大教授にもできない発見をやってのけたにもかかわらず、アカデミズムからは在野で片付けられるのである。従って「自由」ではあるが「寄る辺」がない。時の人の喧騒が薄れると、彼は再び寄る辺ない好事家に戻るしかなかったのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/d2/11a33b372af1b6acdd319886131b5450.jpg)
雑木林の小屋で、そんな思いがひしひしと私を襲った。そんな感傷は私の勝手な思い込みで、相沢さんはもっと強い意思で夏井戸の崖に取り組んでいるに違いない、と思いつつも、氏が「旧石器人の家族団らんの場を探し当てたいのです」と強調すればするほど、その苦労を重ねた幼少年期を思い、その寂寥が理不尽に思えてくるのである。群馬県はなぜもっと、その業績に応えるポストを用意できないのか、などと。
氏の没後4年にして、立派な市立博物館が建てられた。氏が発見した槍先形尖頭器を模したという館は、巨大なマンモスの骨格展示に違和感を覚えるものの、氏の発掘品がきちんと明記され並べられている。高崎の県立博物館にも相沢氏の功績を記したパネルが展示され、私の50年来の鬱屈はいささか晴れた。博物館を出ると、カラスの大群がねぐらに帰っていく。旧石器人の「ねぐら」も、この空の下にある。(2018.12.1)
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もう50年になるから、様相が一変しているのは当然とは思うが、あの「岩宿の発見」現場はきれいに舗装され、切り通しの道路両側の遺跡A地点、B地点は石積みでしっかり保存されている。隣接地には市立の立派な博物館が建設され、広々とした遺跡公園が整備されている。赤城颪に曝される赤土の岩宿遺跡は思い出すことも困難だし、ましてや納豆を売る相沢青年が自転車で通りかかる姿を連想することも難しい。
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正確には1974年ごろだったと思う。私は相沢さんを、この遺跡地に近い自宅に何度か訪ねたことがある。道路に面して小さな庭がある、平屋の慎ましいお宅だったと記憶している。岩宿の発見者はすでに、時の人を経て伝説の存在になりつつあった。気さくな人柄の氏は、素人の私にも丁寧に、情熱を持って旧石器時代人の生活痕を追い続けていると語り、語り疲れて日が沈むと、趣味の横笛を披露してくれもした。
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ある日、これから本格的に発掘に取り組むという夏井戸遺跡を案内すると連れ出され、山中の小屋に通された。質素ながら氏の大切な研究室のようで、看板には「赤城人類文化研究所」とあったように思う。そして内部の壁には、研究所長に始まって、県や村の文化関係の委員など、事細かな「肩書」までを記した木札が隙間なく掛けられていた。その数の多さに驚きながら、私は氏の寂しさに触れてしまったと思った。
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相沢氏を紹介する書物には、「研究者」の前に決まって「在野の」が付けられる。明け透けに言えば「学歴のない、素人の好事家に過ぎない」といった意味が冠せられるのだ。大学の大教授にもできない発見をやってのけたにもかかわらず、アカデミズムからは在野で片付けられるのである。従って「自由」ではあるが「寄る辺」がない。時の人の喧騒が薄れると、彼は再び寄る辺ない好事家に戻るしかなかったのである。
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雑木林の小屋で、そんな思いがひしひしと私を襲った。そんな感傷は私の勝手な思い込みで、相沢さんはもっと強い意思で夏井戸の崖に取り組んでいるに違いない、と思いつつも、氏が「旧石器人の家族団らんの場を探し当てたいのです」と強調すればするほど、その苦労を重ねた幼少年期を思い、その寂寥が理不尽に思えてくるのである。群馬県はなぜもっと、その業績に応えるポストを用意できないのか、などと。
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氏の没後4年にして、立派な市立博物館が建てられた。氏が発見した槍先形尖頭器を模したという館は、巨大なマンモスの骨格展示に違和感を覚えるものの、氏の発掘品がきちんと明記され並べられている。高崎の県立博物館にも相沢氏の功績を記したパネルが展示され、私の50年来の鬱屈はいささか晴れた。博物館を出ると、カラスの大群がねぐらに帰っていく。旧石器人の「ねぐら」も、この空の下にある。(2018.12.1)
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