今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1090 鹿沼(栃木県)蒼天の鹿沼を歩き「はるのくれ」

2023-03-20 14:56:58 | 群馬・栃木
まばゆいほどの早春の光を浴びて、美しい桃色を広げているこの花の名は何だろう。桜でも梅でもない、花桃の一種かもしれない。鹿沼の名園の一つ、掬翠園の塀越しである。周囲はまだ冬の装いを脱していないというのに、ここだけは季節が進んでいる。だから通りかかる人は、写真に収めずにはいられないのだろう、背伸びをして頑張る。隣りで目を細めて眺めているのは芭蕉だ。334年前、奥の細道行脚の芭蕉は、3日目の草鞋を当地で脱いだ。



鹿沼については「鹿沼土」以外は何も知らないのだが、日光・今市の帰路、JR日光線が鹿沼駅に差し掛かると、ついふらふらと降りてしまった私だ。とにかく街へ行ってみようと、駅前通りを下る。この下り道がすごい。西へどこまでも、真っ直ぐ下って行く。歩いて帰るのは避けようと思うほど、上り勾配はきつそうだ。下り切ると北から南へ流れる黒川に遮られる。その畔りに立って、「何と気持ちのいい街だろうか」と、私は思わず深呼吸をする。



街とはどこも、独自の地勢と歴史があり、その個性を愛する土地人が暮らしている。だからどの街にも面白さや興味深さが潜んでいて、訪ね歩くに飽きることがない。そのうえ時折り、感嘆符をつけたくなるような風情に出会って嬉しくなることがある。鹿沼・黒川の府中橋のたもとで、空の広さに目を奪われた時がそうだった。日光・今市の小盆地から、関東平野が広がり始める地に出てきたのだから、青空も私の気分も、一気に解放されたのである。



対岸に「としょかん」と大きく書かれた建物が見える。隣には可愛い時計台を乗せた緑の屋根が覗いている。まずはそこを目指そうと橋を渡り、ほころび始めたハクモクレンを愛でながら「ふれあい堤」を行く。緑の屋根は川上澄生美術館だった。日本の木版画史には欠かせない川上澄生(1913-1972)は鹿沼の出身だったのかと思いながら入館する。しかしそうではなく、鹿沼出身のコレクターが多くの作品を市に寄贈したのが契機だったという。



川上は東京育ちだが、若いころに旧制宇都宮中学の英語教師として赴任、隣町の鹿沼にも教え子がいたかもしれないから、鹿沼と縁があると言えないこともない。市は川上の作品「日本越後國柏崎黒船館」をモデルにして、鹿沼産の深岩石と「木のまち鹿沼」の木材を用いた美術館を建てた。開館30年になる。さらに「友の会」や「川上澄生美術館木版画大賞」の公募で木版画の普及に努めている。自治体の文化活動のモデルにしたいような話だ。



鹿沼は江戸時代には日光例幣使街道の宿場町として賑わい、今は人口92000人の地方都市だ。私を驚かせた駅前からの「坂」は、黒川右岸の旧市街地「坂下」と、左岸の鹿沼台地上に広がる新市街「坂上」を繋いでいる。私はもっぱら坂下を歩いて、街の鎮守・今宮神社に行ってみる。10月の例祭は各町内が自慢の屋台が繰り出し、街は江戸鹿沼宿の記憶を蘇らせるという。芭蕉はそんな街を「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠んだ。



赤城山の噴火で堆積した軽石だという鹿沼土は、わがベランダ庭園でも不可欠の鉢植え素材なので親しみがある。同じ火山灰が凝結したものだろうか、大谷石によく似た深岩石も鹿沼の特産だ。美術館に隣接して建つ文化活動交流館の石蔵は、時とともに増す深岩石の風合いが良く分かる。旧市街の「坂下」は空洞化が進んでいるようだが、再開発された交流館界隈は実に心地よい。「つい、ふらふら」と立ち寄った街で、いい時を過ごした。(2023.3.9)
























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