今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

550 網張(岩手県)高原で東北の宇宙見晴るかす

2013-12-11 14:18:02 | 岩手・宮城
網張という温泉郷が、東北ではよく知られた湯なのかどうかは知らないけれど、小岩井牧場を抜け、岩木山の南麓をひたすら登って着いたそこは、雄大な景観と山の冷気が心地よい高原だった。自動車道の終わりに休暇村という殺風景な宿が1棟だけあって、そこから先はスキー場のリフトが更なる高見に通じているのだった。旅の終わりは温泉で足を伸ばしたいと、盛岡のホテルをキャンセルしてやって来た甲斐があったようである。



西の空、つまり秋田から日本海へと広がっているはずの空を、美しくも不気味に染めていた夕映えが、一日の火照りを納めて暗く沈むと、東の山麓を隈取る家々の灯が明るさを増して来た。遠く、ひときわ明るい光を放っているのは盛岡の市街だろう。その向こうに北上山地が黒々と横たわり、さらに先は三陸の海へと続いている。南は宮城・福島・東京へと大地が延びているはずだが、幾重にも重なる山稜がそれを隠している。



すっぽりと宇宙に覆われている気分だ。それでだろうか、唐突に「人類がアフリカに誕生して数百万年」という思いがうかんだ。そのごく一部がアフリカを離れ、ユーラシア大陸に渡ったのが6、7万年前のこと。それから東へ西へ北へと移動したご先祖様たちが、大陸のはずれのこの列島にたどり着いたのはいつのことだったろう。太平洋に行く手を阻まれ、「ここもいい土地ではないか」と呟く。そうやって「東北人」の歴史が始まった。



それからまた長い時間が流れ、人々は石を磨き土器を焼くことを憶え、縄文の集落を営んで行く。いつのころか、その付近をアイヌと呼ばれる人たちが、南から北へ通過して行った。平和な時代が長く続いた後、南方から大和朝廷を名乗る軍勢が押し寄せて来た。先住の人々は村を超えて抵抗し、阿弖流為(アテルイ)という名をその象徴として残した。東北には、畿内のような「歴史の澱」が溜まっていない。清澄かつ希少な地なのである。



翌朝、リフトに乗った。早朝から山歩きを楽しむハイカーの列ができている。中年のグループが多い中で、単独行のおじさんが人恋しくなったか、私たちに話しかけて来た。岩木山もいいが、西へ縦走するコースが好きなのだと、盛んに説明してくれる。これまで盛岡から望む岩木山の大きな姿に感動して来たのだが、今度はその中腹から東北の大地を望んで、気持ちがさらに大きく広がった。そして山の向こうの悲惨な姿を忘れそうになる。



しかしそんな私のいい加減な気分は、旅の最後に立ち寄った岩手県立美術館で対面した裸婦像に冷や水を浴びせられることになる。それは陸前高田市の文化センターに置かれていたブロンズ像で、津波に流され、瓦礫の中から発見された柳原義達の「岩頭の女」である。釧路の幣舞橋に立つ「秋」に似た像は、左腕と両足首を失い、しかしなお豊かな肉体で美を放っている。「私を見なさい、忘れるな、生きています」と語りかけて来た。



網張温泉からの帰り、小岩井牧場の「一本桜」を探した。案内に従って小道に分け入ると、丘の稜線に1本だけ、大きな桜が立っていた。牧草地に立つこうした樹木は「日陰樹」と呼ばれ、暑さに弱い牛を守るための樹木なのだという。満開の花をつけた映像は夢の中のように美しいが、豊かに葉を蓄えた姿も実にいい。織物や酪農で東北の農民を豊にと願った宮沢賢治の思いは、ホームスパンやこの牧草地に結実している。(2013.9.28-29)







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