美しい風景を愛でたくて旅を繰り返しているわけではないのだけれど、たまにそうした出会いはあるものだ。だとしたら、せっかく写し撮った1枚を、確実に私のハードディスクに留めることにしようと、写真から記憶を遡らせ、原稿を成そうと頑張ってみることがある。今回のそれは東日本大震災から4年になる数日前の、岩手県下閉伊郡田野畑村羅賀の海辺のホテルから望む、午後11時40分の月である。私は7階のベランダから眺めている。
満月なのかもしれない。覆っていた雲が途切れると、まんまるの姿が眩いほどに金色の光を発し、鎮まり返る海面に輝く道を延ばして来る。あの日、ほぼ南方の沖合130キロの海底で激しく揺れた海は、高さ数十メートルにも盛り上がって襲ってきた。三陸海岸の小さな入江に建つこのホテルも、ひとたまりもなかったという。自身も被災した従業員たちは、頑張って営業を再開したのだが、3階以下は壊滅したまま今も手をつけられないでいる。
久慈から宮古へ三陸鉄道の旅を続けている私は、行程の中ほどで1泊するスケジュールを組んだ。のんびり寄り道をしているものだから、途中で日没を迎えるからだ。行程なかほどになる田野畑駅で降りたのは、私と高校生が一人。彼は親の迎えの車に、私はホテルの迎車に乗り込んだ。そうでもしないと駅前はバスも通わず、タクシーもいない。ホテルの送迎車は一人だけの客を乗せ、坂を下って小さな集落を通過した。薄暮の街は無音である。
田野畑村は岩手県北部、太平洋に延びてきた北上山地が、風光明媚な断崖を連続させる三陸海岸の村だ。ほとんどが山林で、平坦部は村の16%という山間地で、酪農と水産業が主な産業である。震災時は3500人ほどだった人口は、震災で減少に拍車がかかっているのかもしれない。翌朝、私はホテルの建つ入江を少し歩いただけで、再び三陸鉄道の乗客になったものだから、村の中心部である内陸高台地区は知らないまま終わった他所者である。
暮らしとは全く関わりがないのだが、他所者らしく私が興味を惹かれたのは「田野畑」という村名である。およそ「土地の名」というものは、その地勢や歴史、あるいは人々の願いを込めた名称が好まれるもので、自治体名はそこに美しく縁起の良い文字を当てたりする。田野畑村は明治22年、近隣3村が合併して誕生した。新村名は田野畑を継続し、以来、村の形は変わっていない。江戸時代以前から続く村名なのだろう、素朴で鄙びた響きだ。
「閉伊」の意味は知らないけれど、下閉伊郡は宮古を中核にしたエリアで、山地と海の暮らしが古くから営まれてきた土地らしい。そこで「田野畑」である。この村名には「海」の気配がない。世界有数だとされる三陸沖の漁場を眼前にして、それはなぜか。中・近世の人々にとって、この大洋は漁をするには技術的にあまりに荒々しい存在だったのではなかろうか。だから暮らしは内陸山間地で営まれた。村名はそのことを伝えているのではないか。
沿岸を南下する三陸鉄道の車窓からは、短いトンネルを通過するたびに、海に延びる小さな半島に抱かれた漁港が現れては過ぎて行く。いずれも長い波消しの堰堤を海へ延ばし、小さな船溜りを形成している。あの津波は、そのことごとくを飲み込んだのだろう。三陸は、何度も大津波に襲われてきた海である。しかし人々はまた立ち上がり、営みを始める。本来は私が出会った月夜のように、息をのむ美しさを見せる土地なのである。(2015.3.5-6)
満月なのかもしれない。覆っていた雲が途切れると、まんまるの姿が眩いほどに金色の光を発し、鎮まり返る海面に輝く道を延ばして来る。あの日、ほぼ南方の沖合130キロの海底で激しく揺れた海は、高さ数十メートルにも盛り上がって襲ってきた。三陸海岸の小さな入江に建つこのホテルも、ひとたまりもなかったという。自身も被災した従業員たちは、頑張って営業を再開したのだが、3階以下は壊滅したまま今も手をつけられないでいる。
久慈から宮古へ三陸鉄道の旅を続けている私は、行程の中ほどで1泊するスケジュールを組んだ。のんびり寄り道をしているものだから、途中で日没を迎えるからだ。行程なかほどになる田野畑駅で降りたのは、私と高校生が一人。彼は親の迎えの車に、私はホテルの迎車に乗り込んだ。そうでもしないと駅前はバスも通わず、タクシーもいない。ホテルの送迎車は一人だけの客を乗せ、坂を下って小さな集落を通過した。薄暮の街は無音である。
田野畑村は岩手県北部、太平洋に延びてきた北上山地が、風光明媚な断崖を連続させる三陸海岸の村だ。ほとんどが山林で、平坦部は村の16%という山間地で、酪農と水産業が主な産業である。震災時は3500人ほどだった人口は、震災で減少に拍車がかかっているのかもしれない。翌朝、私はホテルの建つ入江を少し歩いただけで、再び三陸鉄道の乗客になったものだから、村の中心部である内陸高台地区は知らないまま終わった他所者である。
暮らしとは全く関わりがないのだが、他所者らしく私が興味を惹かれたのは「田野畑」という村名である。およそ「土地の名」というものは、その地勢や歴史、あるいは人々の願いを込めた名称が好まれるもので、自治体名はそこに美しく縁起の良い文字を当てたりする。田野畑村は明治22年、近隣3村が合併して誕生した。新村名は田野畑を継続し、以来、村の形は変わっていない。江戸時代以前から続く村名なのだろう、素朴で鄙びた響きだ。
「閉伊」の意味は知らないけれど、下閉伊郡は宮古を中核にしたエリアで、山地と海の暮らしが古くから営まれてきた土地らしい。そこで「田野畑」である。この村名には「海」の気配がない。世界有数だとされる三陸沖の漁場を眼前にして、それはなぜか。中・近世の人々にとって、この大洋は漁をするには技術的にあまりに荒々しい存在だったのではなかろうか。だから暮らしは内陸山間地で営まれた。村名はそのことを伝えているのではないか。
沿岸を南下する三陸鉄道の車窓からは、短いトンネルを通過するたびに、海に延びる小さな半島に抱かれた漁港が現れては過ぎて行く。いずれも長い波消しの堰堤を海へ延ばし、小さな船溜りを形成している。あの津波は、そのことごとくを飲み込んだのだろう。三陸は、何度も大津波に襲われてきた海である。しかし人々はまた立ち上がり、営みを始める。本来は私が出会った月夜のように、息をのむ美しさを見せる土地なのである。(2015.3.5-6)
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