今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

952 大崎(宮城県)ササニシキ宝の稔り大崎耕土

2021-07-02 13:40:23 | 岩手・宮城
東北地方も梅雨に入ったことは、昨日の相馬で遭った驟雨で思い知らされたけれど、仙台経由で古川から陸羽東線に乗り継いだころには空は青く晴れ上がり、白雲の湧き昇る様子はもはや夏である。私は宮城県北部の奥羽山脈を、ひたすら西へ分け入っているのだが、人生古希を過ぎてなお、日本列島で知らない土地は多く、古川から山形県の新庄に向かうこの界隈も初めてである。そもそも通過している「大崎市」という街の名に馴染みがない。



仙台からの東北新幹線を乗り換えた古川駅に「祝『大崎市』誕生15周年」と書いてあった。ここは古川市のはずだが、大崎とはどこだろう、などと戸惑う私は、2006年に古川市と6町が合併して新生・大崎市がスタートしていることも知らない時代遅れだったのである。概ね合併で難しいのは、新市名の選択である。中核となる街が他を吸収する形である場合は、その中核市の名が継承されるのが一般的である。だがここは、そうはならなかった。



古川市が規模では圧倒的に中核だったのだろうが、奥羽山中・荒雄岳に発する江合川が東行し、北上川に合流する手前で形成する平野は古川平野ではなく、大崎平野(大崎耕土)と呼ばれてきた。この地は飛鳥時代にまで遡る大和朝廷の東北支配拠点で、中世、奥州探題として広く治めたのが「大崎氏」である。伊達も南部もその家臣から始まったのだ。江合川流域の市町が合併するにあたり、人々は誇り高い「大崎」を思い出し、「古川」を抑えたのだろう。



「祝15周年」のポスターに、「宝の都(くに)」の文字が添えてある。おそらくササニシキをはじめとするブランド米の産地としての「大崎耕土」を指しているのだろう。一帯は古くから水源管理や新田開発が続けられ、自然環境と一体化した沃野であったという。車窓からの限られた視界であっても、次々と現れる豊かな大地と穏やかな里の風景は、心地よいものがある。2017年には世界農業遺産に登録されたというから、確かに宝の都である。



「岩出山」という、聞いたことがあるような駅が現れ、その次に「有備館」という、聞き慣れない駅に停まる。岩出山は16世紀末、伊達政宗が仙台に移るまで本拠とした土地で、以後、岩出山伊達家の城下になっていく。江合川川筋の中心的街なのだろう。そして有備館は仙台藩の学問所で、古い建築様式と庭園が残されているという。いつしか温泉の名のつく駅が続くようになると、風景は山がちになって、こけしで名高い鳴子温泉に到着する。



少しウトウトしたのだろうか、気がつくと「堺田」という駅に停車していた。珍しい名称だと思ってホームの奥を覗き込むと、「分水嶺」の看板が立っている。標高338メートル、東西の海まで共に100キロ余ということで、ここはすでに山形県らしい。どうやらこの辺りの峰々が、奥羽山脈の雨水を太平洋と日本海に分けているらしい。岩手県の山田線で似たような駅を通ったことを思い出した。盛岡と宮古の境で、「区界(くざかい)」といった。



相馬から仙台―古川―新庄と移動しながら、つくづく仙台は大都会だと知る。原ノ町始発のローカル列車は、通勤通学の時間帯で、岩沼で東北本線に合流したころには満員状態だ。仙台まで降りる人は稀だから、混みようは東京と似ている。相馬の人たちが「福島には年に何度もいかない。買い物は仙台に行く」と言っていたことがうなづける。127000人の大崎市の人たちも、多くが仙台経済圏に吸い寄せられているのではないだろうか。(2021.6.25)



















コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 951 相馬【福島】野馬追の日... | トップ | 953 新庄(山形県)お囃子が... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

岩手・宮城」カテゴリの最新記事