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久しぶりの川越散歩を楽しんでいると、カラフルなワッペンを貼ったゴミ収集車がやってきた。目を凝らすと「100th Anniversary」とある。川越市は2022年、市制100年を迎えるのだという。それは埼玉県で初めて誕生した「市」だった。江戸時代を通じて武蔵国の最有力城下町であった歴史を思えば、川越が「一番目の市」になるのは当然だっただろう。しかしそれが大正11年とは遅過ぎはしないか? 全国で90番目以下の順になる。
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明治維新政府が廃藩置県を断行後、この国の地方自治がどのように育ってきたかはよく知らない。ただ1888年(明治21年)に市町村制が敷かれ、まず全国に36の市が生まれる。明治期の戸籍統計などで当時の人口を見ると、市制の目安だったらしい1万人を超えているのは埼玉県では川越町と熊谷町しか見当たらない。県庁が置かれた浦和町は六千人にも達していない。36市には新潟や水戸が含まれるのに、埼玉の街の人口規模は小さい。
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埼玉県に「市」が生まれるのは、市制施行から33年後のことである。これは関東各県の中で最も遅い。明治初期の日本の人口は、新潟や北陸辺りが最も多かったというのは何かで読んだが、そのころの関東、なかでも埼玉はどうだったのだろう。江戸の食料供給地であった埼玉は、世界的大都市であった江戸の胃袋を満たしながら、自らは多くの人口を養う力はなかったのだろうか。この疑問を調べる手がかりは目下の私にはない。宿題にする。
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ただ総務省が発表している都道府県別人口増減率によると、1921年(大正10年)から2019年までのほぼ100年間に、人口が一度も減ったことがない唯一の県が埼玉県なのだそうだ。例えば東京都も神奈川県も、1923年には人口が大きく減少している。これは関東大震災が関わっていると思われ、逆に埼玉県は大幅に増加している。多くが埼玉の武蔵野台地に避難・移住したからだ。そして現在は734万人と、全国5位の人口大県である。
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さて川越である。市役所前に建つ太田道灌像には「古代からこの地方の文化の中心であり、1457年に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた」と刻まれている。確かに川越は、江戸とは川越街道で直結し、江戸城に至近の城下町として繁栄した「江戸の母」だった。埼玉県と入間県(熊谷県)が合体して現在の埼玉県になる(1876年)際に、県庁が置かれてもおかしくはない街であった。
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川越市の人口は35万人。今では「江戸の母」より「小江戸」を名乗り、蔵造りの町並みをよく残して多くの観光客を集めている。コロナ感染が下火になったせいか、平日だというのに今日も大勢が街歩きを楽しんでいる。校外学習なのだろう、小学生が幾つものグループに分かれ、蔵の商家やランドマークの「時の鐘」を巡っている。案内しているのはお揃いの赤いジャケットを着込んだお年寄りたちだ。伝えたい街の誇りはたくさんあるのだろう。
市制100年に合わせたかのように人口増はピークを打ったようで、30年後には30万人を割り込むと市は予測している。それでもこの街は、落ち着いた暮らし良さを維持していくような気がする。喜多院に向かう途中、「芋十」という菓子店があった。川越名物といえばイモだろうから、店のおばあさんに何がいいか訊ねると、「最近はあまり売れないけれど、本当の川越のイモ菓子はこれなんですよ」と芋せんべいを薦めてくれた。(2021.10.21)
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明治維新政府が廃藩置県を断行後、この国の地方自治がどのように育ってきたかはよく知らない。ただ1888年(明治21年)に市町村制が敷かれ、まず全国に36の市が生まれる。明治期の戸籍統計などで当時の人口を見ると、市制の目安だったらしい1万人を超えているのは埼玉県では川越町と熊谷町しか見当たらない。県庁が置かれた浦和町は六千人にも達していない。36市には新潟や水戸が含まれるのに、埼玉の街の人口規模は小さい。
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埼玉県に「市」が生まれるのは、市制施行から33年後のことである。これは関東各県の中で最も遅い。明治初期の日本の人口は、新潟や北陸辺りが最も多かったというのは何かで読んだが、そのころの関東、なかでも埼玉はどうだったのだろう。江戸の食料供給地であった埼玉は、世界的大都市であった江戸の胃袋を満たしながら、自らは多くの人口を養う力はなかったのだろうか。この疑問を調べる手がかりは目下の私にはない。宿題にする。
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ただ総務省が発表している都道府県別人口増減率によると、1921年(大正10年)から2019年までのほぼ100年間に、人口が一度も減ったことがない唯一の県が埼玉県なのだそうだ。例えば東京都も神奈川県も、1923年には人口が大きく減少している。これは関東大震災が関わっていると思われ、逆に埼玉県は大幅に増加している。多くが埼玉の武蔵野台地に避難・移住したからだ。そして現在は734万人と、全国5位の人口大県である。
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さて川越である。市役所前に建つ太田道灌像には「古代からこの地方の文化の中心であり、1457年に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた」と刻まれている。確かに川越は、江戸とは川越街道で直結し、江戸城に至近の城下町として繁栄した「江戸の母」だった。埼玉県と入間県(熊谷県)が合体して現在の埼玉県になる(1876年)際に、県庁が置かれてもおかしくはない街であった。
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川越市の人口は35万人。今では「江戸の母」より「小江戸」を名乗り、蔵造りの町並みをよく残して多くの観光客を集めている。コロナ感染が下火になったせいか、平日だというのに今日も大勢が街歩きを楽しんでいる。校外学習なのだろう、小学生が幾つものグループに分かれ、蔵の商家やランドマークの「時の鐘」を巡っている。案内しているのはお揃いの赤いジャケットを着込んだお年寄りたちだ。伝えたい街の誇りはたくさんあるのだろう。
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市制100年に合わせたかのように人口増はピークを打ったようで、30年後には30万人を割り込むと市は予測している。それでもこの街は、落ち着いた暮らし良さを維持していくような気がする。喜多院に向かう途中、「芋十」という菓子店があった。川越名物といえばイモだろうから、店のおばあさんに何がいいか訊ねると、「最近はあまり売れないけれど、本当の川越のイモ菓子はこれなんですよ」と芋せんべいを薦めてくれた。(2021.10.21)
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