
お爺さんに抱かれた幼女はじっと私を見つめ、やがてその小さな手を振って微笑んだのである。何と可憐な仕草か! 思わず一枚撮らせていただいた。小雨に濡れる桑名城跡。孫と散歩のご老体には至福の昼下がりであったろうに、得体の知れない男が近づいて来たためあわてて宝物を抱き上げた、といった風情だった。まあ、そう警戒されても仕方のない濡れ鼠の私であったが、無垢な瞳は私の《善》を見抜き、好意を寄せてくれたのである。
「七里の渡」の桑名である。焼き蛤と言った方が分かりがいいか。私はこれまでに2度、この街を訪れているのだが、いずれも車で案内され、名物らしいうどんすきや蛤を食して帰る、といったものであったから、街の記憶は薄い。やはり自分の足で歩いてみないことにはと、津に行く途中、名古屋からの快速電車を途中下車したのである。人口は14万2000人だというが、駅周辺はいかにも侘しい。目指す渡し跡は東の方角になる。

東海道53次は、熱田の宮宿と桑名の間は伊勢湾上の海の道となる。熱田の宮の渡し跡公園から眺めると、埋め立て地にひしめく工場群が広がっている。一方、桑名側はゆったりと揖斐川が流れ、狭い洲を挟んで長良川の河口堰が望まれる。弥次喜多の時代とは、いずれの側も風景は一変していることだろう。かつては木曽三川が絡み合いながら、海か河口か判別できない「輪中」を縫って、膨大な水量を伊勢湾に注ぎ込んでいたのだから。
つまりこの地で生きることは、絶え間ない治水との戦いであったに違いない。渡しの跡から城跡にかけて、揖斐川沿いに整備された三の丸公園を歩いていると、国土交通省の河川事務所による治水の歴史を勉強することになる。江戸時代中期、明治時代、昭和の伊勢湾台風以後の治水の歩みをたどると、「水を治める」ことがいかに大変か、犠牲の大きさと事業の壮大さに驚かされる。

桑名城にしても、水城のようなものだったのだろう。ほとんど起伏のない城跡は、どこか水郷に紛れ込んだような気分になる。本多忠勝に始まる歴代の殿様は、繰り返される水害の後始末に追われていたことだろう。そうした苦労は桑名市民の心に深く刻まれ、宝暦年間(18世紀中ごろ)、幕府から治水事業を命じられた薩摩藩の犠牲者が、市中の海蔵寺に「義士」として篤く葬られている。

余談になるが、静岡市の安倍川にも薩摩土手と呼ばれる、薩摩藩による治水事業の痕跡が残っている。薩摩藩は堤防工事に秀でていたのか、その力を恐れた徳川家が薩摩藩の財力を削ぐために集中的に普請を命じたものなのか、私に知識はない。ただ桑名の御手伝普請(おてつだいふしん)にあたった藩士は、24人が工事費超過の責任を取って割腹したといい、病気や事故を含めると、この普請での死者は80名を超えたというから凄まじい。
《桑名の夜は暗かった/蛙がコロコロ鳴いていた/夜更けの駅には駅長が/きれいな砂利を敷き詰めた/プラットホームに只独り/ランプを持って立っていた》
JR桑名駅で電車を待った。中原中也の詩碑が建っていた。ホームのベンチに座り、こんな詩を見つけたと東京にメールを打っていると電車が到着した。携帯にメールを打ち込みながら乗り込んだ。津に到着して、カメラのないことに気がついた。駅員に「桑名だ!」と告げると「届いているそうです」。ベンチに置き忘れたのだった。親切な方に拾っていただいた。おかげで幼女の笑顔を記録に残すことができた。(2010.3.4)
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