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昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1096 馬籠(岐阜県)「これより木曽路」と馬籠にて

2023-04-27 20:03:52 | 岐阜・愛知・三重
馬籠宿を登り切ると、山肌を均した展望スペースが整備されている。その広場に立つと視界は一気に広がって、気分も晴れ晴れと軽くなる。南は恵那山(2191m)の稜線が緩やかに流れ、西は幾重にも重なる尾根が遠く靄って消えて行く。妻籠からつづら折りの峠道を越えて来た眼には、ふわりと空中に誘われるような爽快な眺めである。西へ東へ、近世の列島を行き交った旅人たちは、この辺りで私と同じ感慨に耽り、一息ついたことだろう。



快晴無風のおかげだろうが、これほど心地よい展望はいつ以来だろう。「陣場」という土地らしい。小牧・長久手の戦いの際、馬籠城を攻める徳川方が陣を敷いたから付いた名だという。何とも古い話だ。海抜は653メートルとある。この地域のシンボルなのであろう恵那山は、高山であるのに威圧感は薄く、おばさんたちの日傘が似合う優しい山容である。広場には藤村の座右の銘「心を起さうと思はば先ず身を起せ」を刻む直筆の碑が建っている。



それにしても馬籠宿のロケーションの、なんと変わっていることか。旅籠や茶屋が軒を重ねるのは、急傾斜の尾根筋に続く600メートルほどの石畳なのだ。やたらと「足元に注意」の札を見かけるけれど、雪でも降ったら果たして歩けるだろうかと、雪国育ちの私をして尻込みさせるほどの坂道である。ガイドのおじいさんが「馬籠は貧しい村で、少しでも作物を作れる平地は田畑にしたから、旅籠は尾根に並ぶことになったのさ」と説明している。



そうした坂道の中ほどに、藤村記念館がある。代々この宿場で本陣・問屋・庄屋を兼ねた島崎家の旧宅跡である。屋敷は明治の火災で焼失したというが、戦後間もなく「地元出身の文豪を記念したい」という人々の熱意から記念館が建設され、長野県内の教員や子供たちの寄付で記念文庫も完成したのだという。門を入ると、狭い尾根筋にこれほど広い土地を占めていることにまず驚く。そして展示室へは石段を下る構造に、ここが尾根上であると知る。



藤村はここで10歳まで過ごした。その隠居所の2階で、『夜明け前』の主人公でもある父親から四書五経の素読を受けたという。そんなことを知ると、焼失を免れた唯一の建物だという切妻の2階家を、しばらく見上げていたくなる。先日、湘南の大磯を散歩している際に、藤村の墓所に迷い込んだ。本人の遺志だったのだろうか、分骨されて馬籠の菩提寺にも墓が建つ。故郷の墓石には藤村の本名「春樹」と刻まれていることが、私にはくすぐったい。



藤村は信州人だと覚え込んでいる年寄りにとって、馬籠は岐阜県中津川市だと言われても戸惑うばかりである。馬籠は長野県木曽郡山口村であったのだが、山口村は2005年の平成の合併機運の中で長野県を離れ、中津川市に越県合併することを決めたのだ。陣馬の展望広場には岐阜県知事らの名前で「古代、木曽を含むこの地は美濃国であったが、信濃から京に上る利用が増すに連れ信濃国になり、約400年を経過して戻ってきた」とある。



古来、国獲りは命がけの戦の果てであったはずだが、「街道の利用者が増すに連れて」とは何とも長閑な話である。しかしこの陣馬から国見をする限り、今回の越県合併は自然な流れだったと思える。標高790メートルの馬籠峠を境に、旧村は一気に中津川方面に下って行くのだ。



さて私は、「木曽路は特別な匂いがする」と書いた。景観保全への先駆的取り組みが生きていることや、藤村文学からそんな思いにさせられたようである。(2023.4.19-20)
























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